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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0007
2007年02月03日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 武田信玄の肖像画(成慶院)
【2】 肖像画データファイル
【3】 武田信玄と嫡男・義信について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】武田信玄の肖像画(成慶院)◆◆
今回は武田信玄の、問題の肖像画(像主について異論の出ている高野山・ 成慶院本)について語りたい。
★武田信玄の肖像画(成慶院)はこちら ⇒ https://www.shouzou.com/mag/p7.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 武田信玄の肖像
作者名: 長谷川信春(等伯)
材 質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸 法: 29.2×69.6cm
制作年: 元亀3年(1572)が有力
所在地: 高野山・成慶院(和歌山県)
注文者: 武田信玄本人であろう。
意 味: 寿像。
◆◆【3】武田信玄(1521-73)と 嫡男・義信 (1538-67)について◆◆
戦国最強を誇った武田氏だが、信玄は家臣団の統率に悩まされていた。
彼の当主の座は、もともと前当主・信虎の追放という、重臣たちのはかりご とによって築かれたものであったからである。
彼の人生に痛恨の出来事が三つある。
それは、川中島の戦いで弟・信繁を失ったこと(山本勘助も作戦失敗の責を 負って討ち死)、次に嫡男・太郎義信を死に追いやったこと、そして二万五千 の兵を率いて目指した上洛の途上病に倒れたことである。
ここでは武田家滅亡の遠因となった義信の死について考えてみたい。
京から迎えた正室・三条夫人の子として、天文7年(1538)生れた嫡子・ 太郎義信は、信玄期待の跡取だった。
傅(もり)役は飯富(おぶ)虎昌である。義信という名の義の一字は、元服 に際して与えられた足利13代将軍・義輝の諱(いみな)だった。
その正室に信玄は、今川義元の娘を迎えて、甲斐と駿河の同盟を結んだ。 天文21年(1552)のことである。
前後五回という川中島の戦いにもすべて参陣し、たくましい武将に育った 義信だったが、独立心旺盛な武田家の嫡流の常で、戦術を巡って信玄との間に 齟齬が生じ始める。
何より家臣団を大切にし、五分を持って勝ちとするというような信玄に、 若く行動力旺盛な義信は飽き足らない思いを感じていた。
そこに思いもかけず義父・今川義元が討ち死にした。永禄3年(1560)上洛を 目指した義元を織田信長が桶狭間で奇襲したのである。
義元の嫡男・氏真の仇討ち助勢の要請を、信玄は黙殺した。義信も愛する妻 の実家の仇討ちを進言したが、あろうことか信玄は、仇の織田信長と同盟を結 ぶのである。
そして三河の徳川家康と連携を取り、駿河の東西からの国取りを画策した。
上杉謙信の支配する越後侵攻に展望の見えない今、海を得るには弱体化した 駿河の攻略は千載一遇の好機だったのだ。
領土拡張は家臣団の悲願でもあった。ここで義信の正義感が暴発する。
永禄7年(1564)7月、義信とその家臣・長坂源五郎、曽禰周防らは、飯富虎 昌宅に集まり信玄暗殺を謀議した。しかし、これを陰で聞いた虎昌の弟・飯富 三郎兵衛が、信玄に密告したため、メンバーは一網打尽にされた。
信玄は義信を東光寺に幽閉。明くる正月に、虎昌を筆頭とする重臣5名を 誅伐、併せて80名を処分した。
事件から三年後の永禄11年(1567)10月19日、遂に信玄は義信を許し解き放 ったのだが、その日のうちに義信は自害して果てた。享年30。
義信亡きあとの跡取・四郎勝頼(側室・諏訪夫人の子)はこのとき21歳であ る。しかし、家臣団は、諏訪の小悴を次代の当主として認めていなかった。
やむなく、信玄は勝頼を、同年 2月に誕生した勝頼の嫡男・信勝が元服する までの陣代(代理当主)としたのだが、これが信玄亡き後の勝頼の手足を縛る ことになるとは予想できなかったろう。
義信が生きていれば、信虎なみの猛将となったはずであるが、名門武田氏の 滅亡は避けられたかもしれない。
信玄によって捕えられたとき、飯富虎昌は哀れにも最後まで義信をかばって 自分一人の企みであると訴え続けた。彼は傅役として、義信の暴発を止められ ない責任を一手に負うため、弟・三郎兵衛に密告させたのである。
自分を甲斐の当主に担ぎ上げた恩人・虎昌の真意が、信玄に分からないはず はないが、武田家臣団の分裂を防ぐには処断するしか方法がなかった。
しかし、義信を御し得なかったこの事件の代償は高くつくのである。
ちなみに、虎昌が戦場において率いた部隊は「飯富の赤備え」といって、全 軍の装束を赤一色に統一したことで有名である。この軍団の火の玉のような突 撃は知れ渡り、敵は赤備えを見ただけで戦意を喪失したほどだったという。
武田氏が滅亡した後、徳川家康は武田の遺臣を同心に取りたて、虎昌の赤備 えを再編させた。井伊直政率いる赤備え軍団は、大坂冬・夏の陣で大活躍し、 この伝統は彦根藩主となった井伊家によって幕末まで伝えられた。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
絵師の名は長谷川等伯(1539-1610)。毛利氏の御用絵師・雲谷等顔に対抗 して雪舟五代目を名乗り、当時全盛を誇った狩野派一門にただ一人で挑んで長 谷川派を旗揚げした日本絵画史上の巨人である。
等伯は、天文8年(1539)能登の七尾城主・畠山義総の家臣・奥村文之丞宗 道の子として生まれた。やがて奥村家に縁のある染物屋・長谷川宗清(法名 道浄:1508-1571)の養子となる。
養父・宗清は画技に長じていた。漢画派の祖・雪舟(1420-1506)の弟子・ 等春(15C後半-1542頃)が、加賀に3年ほど留まった折に絵を学んだという。 また法華信者であり、家業を通じて京や堺とのつながりを持っていた。
等伯は宗清を通して等春の画法を学んでいる。
長谷川家の能登における菩提寺は本延寺で、若き等伯は法華宗関連の仏画・ 肖像画を数多く手がけた。その中には「日乗上人像」や「日蓮聖人像」が伝わ っている。この時代は又四郎もしくは信春という号を用いている。
永禄11年(1568)、妻妙浄との間に嫡男・久蔵が誕生。3年後の元亀2年 (1571)等伯33歳のとき、父長谷川宗清、母妙相があいついで没した。等伯は 家業を捨て画工としての自立を決意、妻子を連れて上京する。
途中越前・加賀の一乗谷に立ち寄り朝倉家の御用絵師・曾我派と接触した。
この曾我派というのは、桃山・江戸期において土佐派、狩野派、長谷川派、 海北派、雲谷派と並び称され、室町時代に来日した李朝朝鮮の画家・李秀文を 祖とし、その子・兵部墨渓を画系の二代とする朝倉家の家臣だった。
三代宗丈蛇足、四代紹仙、五代宗誉、六代紹祥。天正元年(1573)の朝倉家 滅亡により一族は離散したが、堺を拠点とした紹祥の弟子・直庵、その子・二 直庵によって江戸時代に命脈をつないだ。
等伯は、当主・曾我紹祥に師事しており、曾我派に伝わる大陸伝来の雄渾な 画風、この空間構成を彼は手中にした。
京では能登七尾本延寺の本山・本法寺の教行院を当面の宿所とした。等伯の 実力は本延寺での制作で認められており、本法寺第八世住職・日尭上人 (1553-1572)の招きもあった。
京についてまもない元亀3年(1572)5月12日、30歳で日尭が入寂したため、 追善供養のための肖像画を描いた。武将肖像画として有名な「伝名和長年像」 「武田信玄像」を描いたのもこの前後のことであろう。
等伯は狩野派の弟子筋と接触しそのスタイルを学んだようである。40代の作 品には狩野派が好んで使用した鼎(壷)形の「信春」印が捺されている。
京と堺をしばしば往復して堺の町衆との交流を深め、やがて大徳寺に出入り するようになり千利休をはじめとする茶人とも交友を得た。
40代半ばになると長谷川派の一門を率いて狩野派との対抗意識をあらわにし 天下普請の受注に奔走。利休の推薦を得た等伯は、天正11年(1583)秀吉が信 長の菩提を弔うために創建した大徳寺総見院の襖絵を担当する。
天正17年(1589)には、大徳寺三玄院住職・春屋宗園の留守に、寺僧の静止 を振り切って一気に襖に水墨山水を描き上げるという逸話を残している。
天正18年(1590)豊臣家の御用絵師・狩野派を押しのけて、新内裏の装飾工 事受注工作を企てたが、狩野永徳がこれを撤回させるという事件があった。安 堵したのもつかの間、永徳は48歳の若さで病を得て帰らぬ人となる。
天正19年(1591)秀吉は夭折した息子の菩提寺・祥雲寺の襖絵制作を等伯に 依頼した。この金碧障壁画「桜図」「楓図」は彼の代表作となり、秀吉は知行 200石を授けた。等伯52歳にして狩野派に肩を並べた瞬間である。
文禄2年(1593)等伯期待の息子・久蔵が26歳の若さで没する。良き理解者 だった千利休も、秀吉のために2年前に世を去っていた。
この大きな痛手のあとに生れたのが、もう一つの畢生の大作、水墨画 「松林図屏風」(国宝)であった。
慶長3年(1598)の秀吉死去の翌年、等伯は一門をあげて「大涅槃図」を制 作した。それは実に天地10メートル幅6メートルという大作だった。この絵は 宮中で天覧に供されたのち、本法寺に収められた。
慶長9年(1604)法橋となる。翌年には狩野派の頭領と同じ法眼位までのぼ りつめた。
慶長15年(1610)72歳の等伯は、新たなる天下人・徳川家康の御用絵師とな るために江戸に下った。家康本人からの招きがあったという。しかし、旅路で 病を得て江戸入りしてまもなくの2月24日に没した。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
これは肖像画としては意欲作である。鷹を見つめる武将の図は例がない。
恰幅の良い像主が置畳に座っている。着ているのは、花柄小紋の素襖の表着 と草に露模様の小袖の内衣。いずれも濃い緑を基調としており胸元にのぞく 珊瑚色の下着と美しく対比させている。
素襖の肩、肘、膝には、結んだ紐を鷹の翼のようにあしらった文様を置いて いる。精緻に描かれた花柄が深い茂みを連想させる。
腰刀を差し、右手には扇子、腰には薬袋を下げている。脇には見事な作りの 太刀が立て掛けられた。
太刀、扇子、鷹に枯れ木と、順に目を移すと画面全部を使った逆N字形が現 れる。さらに視線は畳の縁を左に移動し、やがて素襖の白い紐文様をたどって 渦巻きとなる。
このような視線の意図的な誘導は、20世紀の天才画家セザンヌの得意とする ところだが、若き等伯は依頼された肖像画の中でこともなげに成功している。
容貌を見ると、一見豪傑風だが、実に知的で端正な顔立ちをしており、老練 な経営者そのものである。また、鋭い眼光の中にも諦観のようなものがが滲み 出ており、父・信虎が生涯たどりつけなかった進境を感じさせる。
彼は入道していたというが、それはポーズに過ぎず、月代(さかやき)を剃 っているだけで髷(まげ)も切ってはいない。豊かにたくわえられた髭と共に 飽くなき欲望を生きた信玄にぴったりである。
しかし、人材を重用することにたけた信玄は、年々山野を駆け巡ることも少 なくなり、かつ裕福で道楽好きでもあるためひどく肥満してしまった。部下を 統率するための威厳を示すにはふさわしいのだが。
50代でここまで肥えていては長生きできないだろう。痛風、癌といった成人 病に苦しむ姿が容易に想像できてしまう。
彼が書き残した和歌には、センチメンタルなものが多い。昭和の政治家・ ブルドーザーの如き田中角栄が、クラシックを愛する趣味人だったことと面影 をだぶらせる。
絵師の腕は冴え渡っている。このとき等伯、44歳。京で一旗あげようと野心 満々、乗り込んで間もない頃で、顧客を求めて西へ東へ跋扈した男の小品傑作 であった。
さて、近年この画像の主が信玄ではないという説が広まっている。昭和生れ の2人の学者が考え出した学説で、像主は能登の守護大名・畠山義続(1517- 1590)であるという。その理由は、
(1)腰刀の家紋に「武田菱」ではなく、能登・畠山氏の「二引両」(ふたつ ひきりょう)が描かれている。 (2)作者・長谷川等伯は能登の出身である。 (3)信玄は39歳で出家しているので、等伯の活躍期には髷はないはず。
という三点である。これらは次のように論駁されている。
(1)二引両紋とは、○の中に=を描いた紋で、足利将軍家の家紋である。
鎌倉時代初期、源氏の一門である足利氏が将軍家の白幕に遠慮して、二本の 線を陣幕に引いたのが二引両の始まりで、足利一門の諸家(畠山・細川・吉良 ・今川・仁木・上野)はすべて二引両を家紋としている。
信玄は、寿像を長谷川等伯に描かせるに当って、足利将軍家への忠誠を示す ために、将軍から拝領した小刀を差したと解釈できる。
(2)能登の畠山義続と、この肖像画を所蔵する高野山・成慶院とのつながり が明らかでない。一方、甲斐の武田家にとって成慶院は菩提寺であり、信玄は 宿坊契約をしていた。
次に、成慶院には、武田勝頼が送った「信玄公寿像並遺物等増進候」という 寄進状があり、この肖像画が代々信玄の寿像として伝承されてきたという事実 がある。
また等伯が甲斐に下向し、晩年の信玄と対面して本図を制作する背景も存在 する。
元亀2年(1571)、能登から上京したばかりの等伯は、長谷川家の菩提寺・ 能登の本延寺にたくさんの仏画・肖像画を収めた縁で、本延寺の本山である 本法寺を宿所とした。
等伯を迎えた本法寺の住職・日尭上人(1543-1572)は、信玄の正室・三条 夫人(1521-1570)の叔父にあたる。
三条夫人の父親は、左大臣・三条公頼(1498-1551)であるが、公頼の弟が 45歳年下の日尭だった。日尭が縁のある武田家に、曾我派にも学んだ腕の 立つ絵師・等伯を推薦したと、考えられる。
三条家は公頼亡きあと、実教(三条西実枝の子)、実綱(正親町公兄の子) が跡を継いでいたが、武田家の力を必要としていた。正親町公兄は元亀元年 (1570)4月、信玄の上洛を要請するためわざわざ甲斐に下向している。
(3)戦国期の武将には、有髷の入道姿が多々見られるため、戦を常とする信 玄が剃髪していないのも不自然ではない。
信玄の死後、遺像は江戸時代を通して連綿と描かれているが、土佐常昭作品 をはじめとして、本像を連想させる顔立ちをしたものが多く、江戸期を通じて 本作品が信玄の肖像画として信じられていた。
また、この容貌の中には、メルマガNo.5 で紹介した母親・大井夫人像 https://www.shouzou.com/mag/p5.html に似通ったイメージがある。
さらに、サイトの拡大図の隣に掲載した武田不動尊像が、本像と酷似してい る。この像は、信玄が31歳のとき、京仏師・康清を招いて自らの姿を模刻させ たという等身大の彫像なのである。
以上畠山義続説についての反論をあげてみたが、もともと縁もゆかりもない ところに出たものならともかく、像主名が伝承されてきたという事実のある 肖像画に、新説をこじつけるのには無理がある。
定説を覆せば評価を得られるわけだが、伝承というものを敬虔に畏れ敬う ことが、古人の遺産に対する正しい姿勢であろう。
◆◆【6】次号予告◆◆
次回は、室町幕府13代将軍・足利義輝の肖像を取り上げる予定です。
たびたび本メルマガに顔を出している将軍足利義輝とは、初めて上京した 若き織田信長が臣下の礼を取った武将です。わずか、30歳で暗殺されますが、 「天下を治むべき器用あり」とその死を惜しまれました。
「足利義輝の肖像」は 2月17日(土)にお届いたします。 何卒ご購読のほど、よろしくお願いいたします。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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