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【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年
信長、信玄、家康、モーツァルト…古今東西の肖像画辞典!
   
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 【肖像ドットコム】 時空を超えて〜歴代肖像画1千年          No.0002

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                          2006年12月24日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、
ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と
一緒に読み解いてみませんか?


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――□
【1】 織田信長の肖像画(三宝寺)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主・信長と対面した宣教師たち
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告
【7】 編集後記
□――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】織田信長の肖像画(三宝寺)━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 今回は、戦国時代末期に、ヨーロッパ人宣教師が描いたという西洋画法によ
る信長の肖像画を取り上げる。写真のように描かれたこの絵は、2001年8月5日
テレビ番組『知ってるつもり』で電波に乗って以来、注目され続けている。

 ところが、オリジナル作品はこの世に存在しない。太平洋戦争のときに焼失
してしまったのだという。私たちが見ることができるのは、明治時代に撮影さ
れた複製写真だけである。

 明治初年に行われた「忠臣」の顕彰事業として制作されたという説もあがっ
ているが、筆者は偽物と切り捨てることができない。

(※以下は定説ではなく筆者(肖像画家)の私見とお考えください。)

★★★織田信長肖像画(三宝寺蔵)はこちら
⇒⇒⇒ http://www.shouzou.com/mag/p2.html


◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名: 織田信長の肖像
作者名: ジョバンニ・ニコラオ(イエズス会画派・セミナリオ教師)
材  質: 洋紙に木炭、若しくはコンテ、銀筆等
寸  法: 不詳(原画は焼失)
制作年: 1583〜90年
所在地: 羽前・三宝寺(山形県天童市)
注文者: 織田信雄が最有力
意  味: 原本は、信長の死後まもない頃に描かれた追慕像。(織田宗家の礼拝
に用いられた。)

 遠藤周作の対論集『たかが信長されど信長』(文芸春秋社1992)によれば

 「信長の死後、宣教師によって描かれた細密な絵を 明治になってから複写
し、宮内庁、織田宗家、三宝寺で分け持ったという。織田家ではこの絵が信長
にもっとも似ていると語り伝えられている。

 天童は、信長の二男信雄の直系の藩、代々の位牌をまつる三宝寺の仰徳殿内
に、この絵は大切に保存されている。」


 次に、複製写真について。

 元天童市立旧東村山郡役所資料館長・湯村章男氏の『織田家の菩提寺に残る
信長の肖像画について』によれば

   「この写真の裏には『大武写真館』と赤い印がおされている。この大武
  写真館とは、天童織田藩出身の写真師大武丈夫が開いた写真館である。
  
   彼は天童から仙台に出て、明治34年(1901)仙台市東一番町55番地で写
  真業を開業する。そして明治41年(1908)には大正天皇東北ご巡幸に供奉
  撮影の命を受け、東宮殿下松島行啓を撮影している。
  
   明治42年(1909)には東京へ出て日比谷に写真館を新築開業。その後、
  宮内庁御用を受け、外国の展覧会等に出品ししばしば最高賞を得ている。
  門人多数におよぶと『セピア色の肖像』(朝日ソノラマ刊2000)にある。
  
   彼の現存する記念写真としては、高橋是清や孫文、香淳皇后の写真など
  が有名だといわれている。大武丈夫は当時としてはかなりの写真家だった
  ことがわかった。明治の中頃複写されたと思われるその写真は、現在仰徳
  殿(三宝寺境内)に飾られている。」

 三宝寺は天保元年(1830)天童藩主織田宗家の菩提寺を申し付けられた。


◆【3】像主・織田信長(1534−1582)と対面した宣教師たち━━━━━━◆

 室町から桃山にかけて渡来した宣教師は100名以上という。その中で、信長
と会見した外国人宣教師の名は4名まで分かっている。ルイス・フロイス、
フランシスコ・カブラル、ソルド・オルガンチーノ、アレッサンドロ・
ヴァリニャーノである。

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ルイス・フロイス Luis Frois(1532-97)

 リスボン生まれのポルトガル人。16歳でイエズス会に入った後、インドのゴ
アでフランシスコ・ザビエル及び日本人ヤジローに出会った。

 1563年 肥前に到着。2年後京都に入り、13代将軍足利義輝に会う。
 1569年 足利義昭と共に上洛した織田信長より京都での布教の許可を得る。
 1580年 巡察師ヴァリニャーノの来日の際通訳として同行し信長に拝謁。
 1583年 有名な『日本史』(1549-93までの日本教会史)の執筆に着手。
 1590年 帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、同
行して聚楽第で秀吉と会見。
 1597年 2月 秀吉によるキリシタン26人公開処刑(長崎26聖人殉教)を記録
したのち同地にて病死。享年65才

 1569年4月8日二条城の建設現場で初めて会見した信長は、フロイスを2時間
質問攻めにした。以下は、2ヶ月後フロイスが書いたローマ宛の書簡(6月1日
付け)。文字による信長の肖像である。

「この尾張の王は、年齢37歳になるべく、長身痩躯、髯少なし、声ははなはだ
高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして
名誉を重んず。決断を秘し、戦術巧みにしてほとんど規律に服せず、部下の進
言に従うこと稀なり。

 彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、自ら奉ずること極めて薄く
日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するが如く肩の上よりこれに語る。
諸人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。

 良き理解力と明晰なる判断力とを有し、神仏その他偶像を軽視し、異教一切
の占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なるこ
となく、死後何事も存せざることを明らかに説けり。
 その事業は完全にして巧妙を極め、人と語るに当り、紆余曲折を憎めり。」

 この初めての出会いから13年後の1582年5月12日。 信長は自らを神と称し、
誕生日の祭祀を挙行する。自らを祭る安土城総見寺には群集が押寄せた。

 しかし、ひと月もたたずに本能寺の変が起こり、信長は自害した。このとき
フロイスは次のように書き残している。

「しかるに信長は、創造主デウスにのみ捧げられるべき、祭祀と礼拝を横領す
るという狂気じみた言行と暴挙に及んだ。

 このためデウスは、群集の参拝を見ながら信長が味わっていた歓喜が、19日
以上継続することを許さなかった。」

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フランシスコ・カブラル Francisco Cabral (1533頃-1609)

 アゾーレス諸島のサン・ミゲル島生れのポルトガル人。
 1550年 インドに渡り、軍人として働いたのちイエズス会の司祭となる。
 1570年 日本布教長として来日。大村・有馬などで多くの信者を改心させた
が、日本人に対しては批判的だった。

 信長には二度会った。1571年、カブラルが、フロイスや日本人ロレンソ・了
斎を引き連れ、岐阜城を訪れたときには、信長は極めて丁重に扱っている。

 1579年 来日したヴァリニャーノと布教方法を巡って対立。
カブラルは、宣教師に日本語を習得させようとせず、日本人に対してもラテ
ン語を学ばせないで司祭になる道を閉ざしていた。

 1581年 日本布教長を解任される。
 1583年 日本を去り、マカオに移動。
 1592年 ゴアでインド管区長を務め、ゴアで死去。

 以下は、カブラルの言葉。

 「日本人ほど傲慢・貪欲・無節操かつ欺瞞に満ちた国民を見たことがない。
 やむを得ない場合を除いては、共同生活に耐えられず、すぐ人の上に立とう
とする。そのため、分派・異端が発生する。

 心中をさらけ出したり、他人に悟られたりしないことを、思慮深く名誉なこ
とと考えている。」

 後年スペイン国王に送った書簡の中では、中国の征服には日本人傭兵が役立
つと、元軍人らしい観察眼を覗かせている。

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ソルド・オルガンチーノ Soldo Organtino(1533-1609)

 北イタリアのカスト生まれ。22歳でイエズス会に入る。
 1570年 来日。岡山、高槻、摂津、河内に布教。日本人に人気があった。
 1576年 信長の許可を得て、京都に南蛮寺を建立。
 1581年 安土に南蛮寺とセミナリオ(神学校)を建て院長となった。
 1583年 安土のセミナリオを高槻に移転。
 1587年 最初のキリシタン禁教令が出されると、小豆島に逃れた。
 1591年 天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。
 1609年 長崎で病床につき76歳で没した。

 1578年 攝津の荒木村重が、信長に対して謀叛を起こし、高槻のキリシタン
大名・高山右近がこれに従った。このときオルガンチーノは信長に呼び出され
右近の説得に奔走させられている。

 開城せねば高槻のキリシタンは皆殺しにするという脅迫であり、もしこれに
失敗すれば、信長がキリシタン全部に対する迫害に転ずる怖れもあった。

 結局、オルガンチーノの説得は成功し、褒美として安土のセミナリオも建設
されることになる。これ以後の信長の信任は厚かった。

 あるとき信長はオルガンチーノに「民衆に対して天国で救われると説いてい
るが、それは民衆が罪を犯さないための方便だろう」と尋ねたことがある。

 信長はキリシタンに対して寛容ではあったが、信仰心はなく、政治の道具と
考えていたことは間違いない。

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アレッサンドロ・ヴァリニャーノ Alessandro Valignano(1539-1606)

 イタリアのキエーティで貴族の家に生まれる。
パドヴァ大学で法学を学んだ後、教皇パウルス4世の招きでローマで働く。
 1566年 イエズス会に入会。
 1573年 広大な東洋地域を回る巡察師となる。日本を生涯に3度訪れた。

 1579年 最初の来日では、日本人司祭の育成が急務と考え、教育機関を充実
させた。有馬と安土に設立された神学校セミナリオ、大分の府内に設けられた
大学コレジオ、修練院ノビシアドである。これは増加するキリシタンに対して
司祭が著しく不足していたためであった。
 
  彼は、日本布教費用の増額を本国で認めてもらうために、天正遣欧少年使
節の企画を発案し、1582年使節と共にインドのゴアまで付き添った。

 1590年 2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。
 1591年 聚楽第で豊臣秀吉に謁見。日本に活版印刷機をもたらした。
 1598年 最後の来日では日本先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会
などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。
 1603年 最後の巡察を終えて日本を去る。
 1606年 マカオで死去。

 信長は、ヴァリニャーノの威風堂々とした体格や人間性、政治的手腕に強い
印象を受けたらしい。安土に滞在した4ヵ月間を非常に喜び、厚遇している。

 大柄な黒人の召使いを見て、その肌を洗わせたというエピソードはこのとき
のものである。

 それが本物の色だと知った信長は、彼をヴァリニャーノから譲り受けること
とし、ヤスケと名付けた。ヤスケはこれ以後、奴隷ではなく士分の扱いを受け
るようになり、信長への恩を忘れなかったという。

 何の予告もなくセミナリオを訪れたり、伊東マンショ祐勝のチェンバロに聞
き入ったりと、信長の無邪気なエピソードが伝わっている。

 天正遣欧使節と共に安土を去るときには、正親町天皇も欲しがったという
秘蔵の巨大な「安土城の図」を贈っている。


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 まず問題は、冒頭に書いた「明治初年に行われた『忠臣』の顕彰事業として
制作されたという説」である。

「忠臣の顕彰事業」とは、明治維新後に生き残った遺族・家臣が行った幕末の
志士たちの汚名挽回のための事業のことである。

 最も著名なのがラスト・サムライ西郷隆盛の死後に描かれた追慕像であり、
印刷局が雇ったイタリア人画家エドアルド・キヨソーネ制作になるモノクロの
肖像画が伝わっている。

 信長に関する事業としては、明治天皇による明治2年(1869)の京都船岡山
の建勲神社建立と、天童藩の知事であった織田信敏(信雄の子孫)による翌年
の天童市真鶴山の建勲神社建立等がある。


 つまりこの明治期に、新たに信長像が制作されたとする説なのだが、この絵
は、維新から33年をさかのぼる 天保6年(1835)に存在していたという記録が
あった。

 再度、湯村章男氏の『織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について』を引用
する。

   「天童藩代官佐藤次右衞門が著した勤仕録の天保6未年(1835年)の項
  に次のような一文を見つけることができた。
  
   『天保六未年正月朔日 一例之通出仕之處、御太祖様尊像御書院奉掛、
  御中小姓以上席々拝礼相済候後、於御用部屋被相詰、同所詰御酒頂戴被仰
  付、…』(天童市史編集資料第14号)
  
   織田家では藩主への年頭の挨拶の折り、毎年御太祖様(信長)の肖像画
  に拝礼し、その後家臣たちは御酒をいただくことになっている。これは、
  『例之通』とあることから初代藩主信雄以来営々と絶えることなく慣習と
  して受け継がれてきたことが想像できる。
  
   毎年拝礼を重ねてきた肖像画が、複写され三宝寺に残ったらしい。」

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 どうやら「明治の顕彰事業説」は否定してよさそうである。

 明治以前の制作となれば、桃山時代が俄然輝きを帯びてくる。

 天保6年ではあの絵を描ける人間が日本に存在しないのだ。西洋絵画技法は
隠れキリシタンのように生き延びることはできなかった。

 また、あの絵が信長生前に描かれた作品だとすれば、作者名は浮かばない。
先ほど紹介した宣教師の誰かが描いた、というのでは無理がある。4人とも
技術者ではないからである。

 しかし、死後の追慕像と考えるとき、うってつけの人物がいる。

 桃山時代のヨーロッパといえば、ルネサンスからバロックに移行するはざま
の時代であり、マニエリズム期にあたる。

 信長と同時代を生きた芸術家に、ミケランジェロ(1564年没)、ブリューゲ
ル(1569年没)、ティツィアーノ(1576年没)がおり、本能寺の変の1582年に
は、ヴェロネーゼ(1528-88)、エル・グレコ(1541-1614)、ティントレット
(1518-94)が生きている。

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 信長が死んだのは天正10年(1582)6月のことである。

 明くる天正11年(1583)イタリアから、彼らの同業者が来日した。
(西郷隆盛像を描いたキヨソーネより腕が立つのも不思議はない。)

 画家の名は、ジョヴァンニ・ニコラオ Giovanni Nicolao(1560-)

 ニコラオは、当時ゴアにとどまっていた巡察使ヴァリニャーノによって、日
本に派遣された。キリシタンの増加と共に、聖画像の需要が増大したので、本
格的な画家が必要となったのである。

 彼は、油絵・水彩・銅版画、祭壇画・壁画に優れていただけでなく、時計・
パイプオルガンの製作や数学もできた万能芸術家だった。

 長崎のセミナリオには、画学舎が設置され、彼は絵だけでなく、時計の製作
についても教えた。(江戸時代の御用時計師の技術と、その流れをくむ明治・
日本時計工業の技術の源は、セミナリオにおけるニコラオの教育にあったとい
われている。)

 日本滞在はから約30年間にも及び、その大半を長崎で活動した。彼が日本を
去ったのは、江戸幕府による禁教令が拡大され、高山右近や宣教師・信徒など
300人が追放された1614年のことだった。

 彼は長崎、有馬、天草のセミナリオで日本人洋画家30名以上を養成し、日本
美術史における『イエズス会画派』を形作った。その門下には、ヤコブ丹波、
レオナルド木村、ペドロ・ジョアン、山田右衛門作、生島三郎佐、生島藤七、
野沢久右、信方らが育っている。

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 オルガンチーノの連絡により上京し、安土から高槻に移っていたセミナリオ
等、畿内を訪れていた画家ニコラオに、織田信雄(1558-1630)が注目し、
亡き父信長を描かせた、というのが筆者の考えである。

 メルマガ創刊号で紹介した尾張・総見寺には、4代目の織田貞置が描かせた
狩野常信作品のほかに、信雄が納めたという信長像が存在する。あまり上手い
作品ではないのだが、彼自身が描いたという伝承もあるらしい。

 彼は、暗愚だったといわれるが、比べる相手が相手だけに気の毒ではある。
安土城を焼いたというフロイスの記録。これは正否どちらも想像できよう。

 ただ、秀吉をあきれさせるほど能が上手かったり、後年、茶人織田有楽斎に
入門したりと、どうも政治・軍事の才能より、信長の芸術的な方面での才能を
継いでいるようである。早世の信忠、信孝とは異なり、72歳の天寿をまっとう
したというのも芸術家的である。

 現代に至る子孫を残したというのも立派なことである。彼はいくつか父の肖
像を作らせていると考えてよいだろう。

 信雄は、天正18年(1590年)小田原征伐のあと秀吉の勘気をこうむり、改易
されて、流罪の憂き目にあっているから、肖像画の制作年としては、それ以前
の天正11年から18年の間が有望である。

 父の記憶もまだ生々しい頃のことであった。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 いかにも王者の風格のある肖像画である。

 テレビで初めて見かけて以来、漠然と、寿像であろうと考えていたのだが、
遠藤周作の記述によって死後の制作と知った。

 作家遠藤は、間違いなく天童の織田宗家に直接取材しているだろうし、言わ
れてみれば、どことなくキヨソーネの西郷隆盛像と共通したムードはある。

 追慕像を作るとき、写真があれば苦労はない。写真がなかったとすれば、ど
うやって画家は描くか。

 そのような場合、まずありったけの故人の肖像を集め、模写する。また故人
を知る縁者に、人となりを取材する。性格・容姿・好んだ衣装が明らかになる
だろう。さらに兄弟・姉妹にモデルになってもらって彼らのスケッチを作る。

 それらを総合して故人の容貌を再構成するが、本画制作では、やはり衣装を
着た影武者モデルが必要となる。こうしないと陰影の描写に説得力がなくなる
からである。

 ここまでやれば、この絵のような作品に成り得るだろう。肖像画家の目から
見ても、そのくらいうまく描けている。

---------------------------------------------

 この絵の信長は、堂々たるスターリン髯を生やしており、フロイスの描いた
「髯は少ない」という記述とは矛盾する。ただ、筆者の知っている限りにおい
ても髯のない肖像画は 2種類存在するので、信長はたまに髯を剃ることがあっ
たとみる。

 髯のない信長を思い描いてみると、役者のように美形である。

 しかし髯は、独裁者にこそふさわしい。晩年は神であることを演出するため
にも、剃るのを我慢していたと見える。

 作品の質が落ちるため、このメルマガ版・織田信長の肖像シリーズには取り
上げないけれど、側室お鍋の方と関係の深い岐阜県・崇福寺の肖像を見ると、
今回の三宝寺本を彷彿とさせる、豊かな髯をたくわえた信長に会える。

 それから、肖像ドットコムサイトの参考図には、再度早稲田本を並べておい
た。ニコラオは、早稲田本の原本である狩野永徳作品を取材しているはずであ
るから、似通っているのも当然だろう。


◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 次回は、京都・大雲院に伝わる、織田信長の肖像画に迫りたいと思います。
 面白いことに、フィギュアスケートの織田信成君を彷彿とさせる絵です。
肖像画として、私はこの絵を一番評価しています。


◆【7】編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 メリー・クリスマス!ご購読ありがとうございます。

 今回は苦心しました。肖像画の作者は不詳のままでしたが、まず本物に違い
ないという過信があったため、はじめる前は実に簡単に考えていたのです。

 しかしよく考えると、宣教師の絵となれば、イエズス会についてきちんと踏
まえる必要があります。さらには、教育施設、キリシタン大名、ポルトガルの
植民地、秀吉のキリシタン弾圧、その遠因、等々。

 そして、調べるうちにニコラオという名前が浮かび上がってきたのです。
(偶然ですが、ニコラオというのは、ニコライ、つまりサンタ・クロース
のイタリア語読みです。)

 これは、まったく予想外のことで、このようなメルマガになってしまいまし
た。もう少し省いてもよかったかもしれませんが、資料として納得のいくもの
にしたかったのです。さて、お楽しみいただけましたでしょうか。

 第10号までは週刊で発行する予定でいます。

 次回は1月1日(月)にお届いたします。
何卒ご購読のほど、よろしくお願いいたします。


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