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- No.05 武田信玄・若き日の肖像画(持明院)
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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0005
2007年01月15日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、 ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と 一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 武田信玄の肖像画(持明院)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主・武田信玄について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】武田信玄・若き日の肖像画(持明院)◆◆
NHKの大河ドラマ『風林火山』が始まった。軍師・山本勘助の生涯が興味 深く描かれ、重厚な作りで好感が持てる。
さて、今回は高野山・持明院に伝わった若き日の信玄・武田晴信の画像を取 り上げたい。
★武田信玄・若き日の肖像画(持明院)はこちら ⇒ https://www.shouzou.com/mag/p5.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 武田晴信(信玄)の肖像
作者名: 不詳(弟・武田逍遥軒信廉説)
材 質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸 法: 不詳
制作年: 不詳(1550年頃、信玄30歳前後の姿ではないか。)
所在地: 高野山・持明院(和歌山県)
注文者: 不詳(像主本人によるものだろう。)
意 味: 寿像。父・信虎を追放して数年後に、甲斐の守護としての自らの姿 を写させたと思われる。
信玄の亡きあとの甲斐を継いだ四郎勝頼が、自分の死後、甲斐武田氏の宿坊 であった高野山・引導院に納めるよう、甲斐・慈眼寺の住職・尊長に託した画 像だという。引導院は、明治初年に合寺して持明院となった。
◆◆【3】像主・武田晴信(1521-1573) について◆◆
戦国時代の武将で甲斐の守護。躑躅が崎(山梨県甲府市)に生れた。
幼名勝千代。将軍・足利義晴の一字を貰い受け、元服して太郎晴信。出家後 の法名信玄。
天文10年(1541)21歳のとき、父・信虎の暴政のため、これを家臣と団結し て駿河に追放し自立した。以後信濃各地の小豪族を破り、1555年に統一。
海のない山国に生れた信玄は、塩を求めて越後(新潟)の上杉謙信と五たび 争う。しかし、目前まで達しながら遂に日本海を見ることはなかった。
北条氏・今川氏・徳川氏・織田氏と、同盟・敵対を繰り返しながら、甲斐・ 信濃・駿河の大部分と、遠江・上野・飛騨の一部、現在の五県にまたがる領土 を勢力下に置いた。
急激に勢力を伸ばしていた織田信長を打倒するため、元亀3年(1572) 信玄 52歳にして、大兵を率いて京都を目指す。しかし、浜松にて徳川家康を破った のち、病が悪化し帰途陣中にて死去。
信玄は強力な家臣団を誇ったが、家族愛には恵まれなかった。
永禄7年(1564)嫡男・太郎義信(1538-1567)がかつての自分のように、親 に対する謀叛を企てたため、これを幽閉。
信玄は誅する積りはなかったようだが、義信は自害してしまった。彼が生き ていたら、4歳違いの織田信長とよく対抗し得たかもしれない。
他の戦国大名と信玄が異なる点は、終生、甲斐国内に城を築かなかったこと である。しかし、先手攻撃を常として一度も攻め込まれることはなかった。
彼の用いた幟(のぼり)には、長さ383cm 紺地に金箔押しで
「疾くこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、
動かざること山の如し」とある。
「甲州のうちに城郭を構え用心することもなく、屋敷構えにて まかりあり。或る人の云う、信玄公の御歌に、人は城、人は石垣、 人は堀、情は味方、仇は敵なり」と。
◆◆【4】肖像画の作者について◆◆
武田晴信の肖像画の作者名は伝わっていない。絵の上部にも賛はない。
数ある信玄画像で絵師が明らかなものとしては、
高野山・成慶院に伝わった長谷川等伯(1539-1610)作品と
山梨県立博物館の、没後百年以上たった1690年に描かれた土佐光起
(法眼常昭:1617-1691)の作品
武田三代の菩提寺大泉寺の狩野探信(1785-1835)作品
島根県立博物館の懐月堂安度(江戸中期の浮世絵師)作品
1550年信玄30歳前後の肖像と考えると、等伯は11歳なので対象外となる。
源氏の氏寺であり甲斐源氏の信玄も深く帰依した、近江の三井寺園城寺には 狩野元信以来一門の手になる障屏画が多い。
冷泉家や三条家とのつながりも深いから土佐派という可能性も浮かぶ。
ネット上では、「現在、武田信玄の肖像画は “弟の信廉が描いたもの”を使用するのが一般的である」という書込みを 見かけたけれども、資料ではまだ確認できていない。
ただ筆者も、絵が醸し出す雰囲気から見て、この晴信の同母弟が描いたとい う説に真実味を感じている。
この武田逍遥軒信廉(信綱)という武将は、プロの絵師に匹敵する作画技術 を持っていたからである。
彼は父・信虎像(大泉寺蔵)、母・大井夫人(恵林寺蔵)を描き、「渡唐天 神像」(長禅寺蔵)、「十王画像」十幅、「十二天画像」十二幅(成慶院蔵) を残し、各地の八幡宮に残る仮面を彫っている。
穏やかな晴信の表情は、実の弟の前に座ってモデルを務めている姿を彷彿と させないだろうか。
ただし、伝承を確認していないため、ここでは作者の断定は控えたい。 この七つ年下の弟・信廉については、次回に詳しく語る予定である。
◆◆【5】肖像画の内容◆◆
甲斐の守護に就任した自らを記念する寿像である。
それは一門・家臣への宣言であると共に、他国への飽くなき領土拡張へ向け た野心の表明でもあったろうか。
晴信は侍烏帽子を被り、青緑に染められた麻地の大紋(紋付)姿で上畳に座 っている。小刀を腰に差し、手には中啓(ちゅうけい:扇の一種)を持つ。
大紋には武田花菱の美しい水色の紋章と、二羽の白鶴が群れ遊ぶ向かい鶴の 文様が散らされ、華やかである。袖元にのぞいている袿(うちぎ)の白が効い ている。
容貌は面長でまだふくよかさはなく、活動的な青年武将を思わせる。下向き の口髭と顎髯を伸ばしているが、小ぶりの唇が上めに描かれているせいで、鼻 の下がやや短く不自然に見える。
眉、眼光、鼻の稜線はいずれも穏やかである。和歌に耽溺した文学青年の面 影も少し残しているが、この表情には独断的な精神が見られず、人の話に耳を 傾ける調和のとれた性格を感じさせる。
織田信長のように決断を秘すことなく、家臣や合議制を重んじた信玄にふさ わしい顔立ちで、耳は、確かに大きいようである。
参考図版として、弟・武田逍遥軒信廉による、母・大井夫人(1498-1552) の肖像を並べた。正しくは武田信虎夫人であるが、大井氏の出自のため大井夫 人と呼ばれる。
彼女は天文21年(1552)55歳で没したが、一周忌にあたり信廉は、亡き母を 偲んで法衣姿の追慕像を制作し、甲府の長禅寺に寄進した。
88cm×38cmの小品で、紺青の頭巾の下の顔立ちは、記憶によって描かれたも のであるため、リアルではなく稚拙な印象を与える。
しかし、19歳で信虎に嫁ぎ、25年後長男信玄によって夫と生き別れにさせら れた女性の、優しい温和な人柄が表情から滲み出ている。
この大井夫人像と並べると、晴信は母親似のようである。垂れ眼、鼻のパー ツの相似が読み取れ、彼が中年の肉付きのよい面貌になればなおさらであろう と思わせる。
若き日の信玄・武田晴信像は、天正10年(1582)の武田家滅亡の直前、子の 勝頼によって、甲斐一宮町の慈眼寺の住職・尊長に託され、勝頼主従の自刃の のち菩提寺の高野山・引導院に奉納されたものである。
◆◆【6】次号予告◆◆
次回は、武田信玄の父・信虎(1494)の肖像を取り上げ、翌々週に再度、信 玄その人の、問題の肖像画(像主について異論の出ている高野山・成慶院本) について語りたいと思います。
過去の大河ドラマでは、中井貴一が信玄を演じた際、父・信虎役を務めたの が平幹二郎でした。現在の風林火山では、仲代達矢が演じています。
父・信虎の狂気を、三男の武田信廉が、一度見たら忘れられない容貌の中に 見事に描き切っています。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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