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【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年
信長、信玄、家康、モーツァルト…古今東西の肖像画辞典!
   
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【肖像ドットコム】 時空を超えて〜歴代肖像画1千年         No.0003

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                          2007年01月01日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、
ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と
一緒に読み解いてみませんか?


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――□
【1】 織田信長の肖像画(大雲院)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主・信長と貞安上人
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告
【7】 編集後記
□――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】織田信長の肖像画(大雲院)━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 今回は、京都市東山区の龍池山大雲院に伝わる織田信長像を取り上げる。
この絵の中の信長は、神像として描かれており、寿像でないことが明らかであ
る。

 しかし、容貌は大変にリアルで、筆者はこの肖像画を、最も評価している。
また、信長から17代目の子孫フィギュアスケートの織田信成君を彷彿とさせる
顔立ちで、あと30年もすればかくや、と思わせる。

★★★織田信長肖像画(大雲院蔵)はこちら
⇒⇒⇒ https://www.shouzou.com/mag/p3.html


◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名: 織田信長の肖像
作者名: 不詳(狩野派絵師)
材  質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸  法: 99.8×59.2 cm
制作年: 不詳(1587年を推測)
所在地: 京都・大雲院(京都市東山区祇園町)
注文者: 不詳(貞安上人が有力)
意  味: 信長の死後に描かれた追善供養のための神像。


◆【3】像主・織田信長(1534−1582)と貞安上人(1539−1615)━━◆

 織田信長は、神や仏、さらに占いといったものを一切信じていなかった。し
たがって、対立する天台宗の総本山比叡山延暦寺や、浄土真宗の一向一揆に対
してとった政策は過酷そのものである。

 しかし、旧宗教勢力にすべてに対して反対者の立場をとっていたわけではな
い。ある時期までは、ルイス・フロイスをして法華宗信者と思わせるほどだっ
たし、安土城下には浄厳院・西光寺をはじめたくさんの寺院を誘致した。

 ここに紹介する貞安上人は信長から多大な恩恵に預かったひとりである。

 貞安聖誉は相模に生まれ、もと能登の西光寺の住持であったが、戦乱を避け
て近江繖山の麓の金剛寺に住んでいた。

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 天正7年(1579)安土城下で法談義をしていた一人の僧がいた。浄土宗
浄運寺開山・玉年霊誉である。その彼に、日蓮宗徒が不審を問うた。

 霊誉は争わず、師僧を呼びなさい、彼らと話そうと答えたのだが、これが騒
ぎに発展してしまう。ついには信長の奉行が間に入って、正式な宗教討論の場
を設けることとなった。これを宗論という。

 日蓮宗側は、京都から日諦、日淵ら数名を派遣し、浄土宗側は、玉年と貞安
が立った。判定には南禅寺長老・景秀が招請され、5月27日 安土浄厳院におい
て信長が立会うことになる。

 宗論は、「法華八軸に念仏あるや」という貞安の問答からはじまり、最後に
日蓮宗側が、題目「南無妙法蓮華経」の中の「妙」の一字に関する説明に窮し
たところで、終了した。

 結局、浄土宗側の勝利となり、信長は貞安を称え、軍団扇と「妙」の字を
与えた。日蓮宗側は打擲され、袈裟も剥ぎ取られた上に、起請文を書かされて
宗論は一件落着となった。

 もっとも信長の配慮で、予め日蓮宗側の敗北が仕組まれていたらしいことも
伝わっている。貞安の名声は大いにあがり、貞安は安土山の下に寺地を与えら
れ、新たに西光寺を創建した。

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 本能寺の変から5年後の天正15年(1587)、織田信長・信忠の菩提を弔うた
め、正親町天皇の勅命により、烏丸二条の御池御所が下賜される。

 この地に貞安は、織田信忠の法名にちなんで「大雲院」と命名された寺院を
創建。さらに3年後の天正18年、豊臣秀吉によって四条寺町下ルに移され、広
いな寺域が確保された。

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 ところで、今に伝わる伝統芸能・狂言の演目にも、「宗論」があるのをご存
知だろうか。

 あるとき法華僧と浄土僧が、偶然に道連れとなった。

 初めは仲良くしていた二人だが、お互いの宗旨が異なることが分かった途端
に、罵り合いを始める。どちらも自分の教えがありがたいのだ、と説きたてる
のだが勝負はつかない。

 強情で短気そうな法華僧は題目を、意地悪そうな浄土僧は念仏を、大声で張
り合う。ついに二人はがなりたてながら、題目踊りと念仏踊りをはじめた。

 しかし、しまいに相手の声につり込まれ、法華僧が「なもうだ」と口をすべ
らす。これにつられて浄土僧が「れんげきょう」と間違う。こうして、ふたり
は気づかぬままに、相手の宗旨を一心不乱に繰り返す。

 以上のようなあらすじである。これはまさに、安土宗論が下敷きになったと
考えられる。そのばかばかしさもさることながら、信長がそのタネを蒔いたの
だと思うと何とも愉快である。


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 残念ながら作者については伝わっていないが、絵のスタイルや像主との関係
を考えれば、まず狩野派の絵師の手になることは間違いない。

 大雲院の建立は、天正15年(1587)であり、織田信長・信忠父子の死後5年目
に、その菩提を祀るためのに造られたのであるから、創建時にはすでに本尊と
しての信長の肖像があったと考えてよいだろう。

 制作日数は、多めにみても三ヶ月、表装に一ヶ月程度が妥当なところである
から、制作年代は1587年(若しくは1586年)となる。

 この時期に畿内で活動していた狩野派の画家となれば、数人の候補者が浮か
んでくる。

 筆頭は創刊号で紹介した狩野永徳(1543-1590)45歳。

 次に、創刊準備号で紹介した直ぐ下の弟・狩野宗秀(1551-1601)37歳。

 当時まだ現役だったと仮定すれば彼らの父・狩野松栄(1519-1592)69歳。

 信長から直かに褒美を賜った永徳の子・狩野光信(1565-1608)23歳。

 安土城内部装飾に参加した永徳の弟子・狩野山楽(1559-1635)29歳。

 永徳のはとこ(父松栄の従兄弟の子)・狩野吉信(1552-1640)36歳。

いずれ劣らぬ名手揃いである。

 このうち惣領・永徳洲信は、1586年には正親町院仙洞御所普請、1587年の聚
楽第普請という、天下人・豊臣秀吉の大事業に一門の代表者として関わってい
るので、時間的に難しいかもしれない。もっとも注文そのものは永徳に直接依
頼があったと考えられ、一門の誰かを推薦したということはあるだろう。

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 彼の弟・宗秀季信の可能性はある。尾張長興寺で実績は証明済みである。さ
らに、長興寺本も大雲院本も、信長の眉間のシワという共通点がある。これは
他の画像には見られない。

 ただ、顔の線描に表現の隔たりが感じられる。長興寺本の方が一回り小さい
点を考慮したとしても、その線描には癖がある。言葉を変えれば、大雲院本よ
りも、長興寺本の線描は個性が強く、単純化されている。線の隈取も強く施さ
れている。

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 次に二人の父・松栄直信であるが、1563年の記録のある『仏涅槃図』を見る
と、緻密な仕事をこなした絵師であることが分かる。

 ただ、その13年後の安土城装飾のとき、既に永徳の後見役であったと考えら
れ(天正4年当時58歳)信長に会う機会もさほど多くはなかったであろう。
彼は、候補から外してよさそうに思う。

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 永徳のはとこ・吉信は傍流になる。作品には『職人尽図』が残っていて、情
感豊かなきめ細かい良品である。見事な肖像画を描いたに違いないが、その作
品が見られないため、決め手にかける。

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 永徳の嫡男右京光信は、後年豊臣秀吉像を制作している。下手右京という後
年の批評もあるが、腕は立ち、父永徳と比べれば繊細な仕事を残している。た
だ、信長が死んだ年には数えで18歳であり、1587年でも23歳にすぎず、この像
のような成熟したイメージを描くには若すぎる。

 肖像画家である筆者の経験と照らしても、大雲院の肖像画は決して若描きの
作品ではない。

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 最後のひとりが永徳の弟子・山楽光頼。これはまごうことなき天才である。
残っている作品の質を比べる限り、永徳を凌ぐと云っても過言ではない。安土
築城の頃、秀吉によって見出され、その推挙で永徳の弟子になった。

 彼は秀吉の肖像を制作しており、この信長の肖像を連想させるものを持って
いる。画品もあり画格も高い。十分作者に成り得る。

 ただ記録も比較すべき作品も十分ではないため、永徳、宗秀、山楽を候補者
にあげるにとどめたい。

 山楽については、豊臣秀吉の肖像を扱う際に詳しく触れようと思う。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 この肖像画の信長は束帯姿で、頭上には織田家の紋章である木瓜紋の帳(と
ばり)を掲げている。これは像主を神像として扱っているのであり、このよう
に、信長の神格化を表現した作品は珍しいらしい。

 ここで少し肖像画の値段の話をすると、遺像の制作費はちょうど、戒名の値
段のようなもので、飾りが豪華になるほど高価になる。

 注文を受ける側からすれば、像主の顔だけを描く首像よりは、胸まで描く胸
像の方が、値段は高くなる。さらに絵が大きくなるに従い、半身像、全身像の
順で高価に成らざるを得ない。

 さらに豪華にしようとすれば、室内装飾を描き入れたり、騎馬像にしたり、
この絵のような神格化した表現などが考えられる。

 時代も洋も異なるが、スペインの宮廷画家だったフランシスコ・デ・ゴヤが
肖像画の注文を受けるとき、高い画料を払ってくれる注文主には、指先まで
はっきりと描くのに対し、そうでない相手には、指先をぼかした、という実例
があった。(これは悪しき実例だが、絵画空間構成上の必要性により、細部を
略したり暗示したりするのが本来の芸術表現である。)

 つまり、この絵の制作費は、長興寺本などと比べればはるかに高価だったと
推測できる。注文者は開山の貞安と記したが、或いは正親町天皇若しくは天下
人秀吉ということも、考えられるだろう。

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 容貌そのものの描き込みも実に丁寧である。

 両目の下にはほくろが描かれているように見える。後天的な汚れととれなく
もないが、このような例は他には見られず、遺像とは思えないほどリアルな表
現である。

 東洋画にはハイライトというものがない。瞳に映る光りの反射は描き込むと
いう習慣はないのである。しかし、確かに目は何かを語っている。

 例によって眉間のシワを観察してみよう。長興寺本では、明らかに、信長の
気短な性格を表わすために、縦ジワが描き加えられてあった。

 一方、大雲院本のそれは、決して怒気を含んだものではない。沈思黙考して
いるときのシワである。

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 織田信長は、西国の覇者・毛利元就と同様に、酒を嗜まなかった。睡眠時間
も短かったという。

 どちらもその父親が早く病死しているため、その一因としてアルコールを忌
避したということはあるようだが、同時に、仕事に対する取り組み方にも原因
がありそうある。

 敵に四方を囲まれた戦国大名の中でも、とりわけ敵の多い信長は常時、頭脳
を明晰に保っておく必要があった。

 合理的な信長は、趣味的な楽しみごとの中にも、政治的な意味を見出してい
る。裏には冷静な計算が常に存在する。

 酔いに浸ることは危険である。目覚めた人であらねばならぬ。

 そして棋士のように、あらゆる可能性を常に考え続ける。すべてを孤独に決
断し、部下には一切を秘め、時いたれば果断に実行に移させた。

 そんな信長が、この絵から読み取れるのである。

 画家の技量は見事である。これも寿像の下敷きがあったには違いないが、人
間に対する深い理解と透徹した目が感じられる。


◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 次回は、織田信長の妹の肖像を取り上げます。細川昭元夫人となったお犬の
方という、信長に大変よく似た美しい女性です。

 有名な浅井長政夫人・お市の方の肖像は、死後17年後に描かれたもので、衣
装以外の実像は伝わって来ませんが、お犬の方の像は死の直後に描かれている
ため、女性の肖像としてはリアルで珍しいものです。


◆【7】編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 新年あけましておめでとうございます。

 織田信長の肖像画は、桃山江戸期のものが28点存在しているそうです。筆者
はこのうち14点を図録で確認しました。

 これは論外、これが信長とはひどい、と思われるものも多いのですが、長く
見ているうちにだんだん興味深くなってくるのは不思議です。

 長興寺本、総見寺本、三宝寺本、大雲院本と4回にわたって信長像を取り上
げましたが、この他に、伝狩野永徳の異種作品、伝長谷川等伯作品、狂気を感
じさせる本能寺本等、まだまだ書いてみたいものはあります。

 これらを順に取り上げ、信長の全生涯をたどることに魅力を感じますが、絵
について語るための資料が十分ではありませんので、信長の肖像画に関しては
この号にて小休止したいと思います。


 「織田信長の妹・お犬の方の肖像」は 1月8日(月)にお届いたします。
何卒ご購読のほど、よろしくお願いいたします。


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