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- No.27 「桟敷席」(ベルネーム・ジュヌ兄弟夫婦の肖像画)
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★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ボナール作「桟敷席」(オルセー美術館蔵)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
◆◆【1】「桟敷席」(ベルネーム=ジュヌ兄弟夫婦の肖像)◆◆
ボナールとベルネーム=ジュヌ兄弟はビジネスを通した友人でした。画家は1908年と1920年の作品の中にふたりを描いています。
ぼそぼそとした筆遣いで描かれたこれらの絵画は、アカデミックでもリアルでもありません。ボナールは伝統的な肖像画の様式を反古にしてでも、自分の表現を通そうとしたのです。
★ボナール作「桟敷席」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p27.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 桟敷席
作者名: ピエール・ボナール
材 質: 油彩(キャンバス)
寸 法: 90×120.6cm
制作年: 1908年
所在地: オルセー美術館(パリ)
注文者: ベルネーム=ジュヌ兄弟
意 味: パリで画廊を経営する兄弟ジョスとガストンから依頼されたのは、オペラ座の桟敷席から観劇している二組の夫婦の肖像画であったはずだが、41才の自信みなぎるボナールが完成したのは、集団肖像画というより人物構成画というべき野心作だった。
画面中央のガストンは頭部を切断された自分の像を見て、がっかりすることしきりだったという。
◆◆【3】像主について◆◆
4人の名前は、
ジョス(ジョゼフ)・ベルネーム=ジュヌ(1870-1941)。 第二次大戦中より、「若い」を意味するジュヌを避け、ドーベルヴィルという 名前を採用。Josse(Joseph)Bernheim-Jeune,Josse Bernheim Dauberville.
ジョスの妻、マチルド・ベルネーム=ジュヌ(1892-1963)。 旧姓マチルド・アドレール。Mathilde Bernheim-Jeune, Mathilde Adler.
ガストン・ベルネーム=ジュヌ(1870-1953)。戦後は画家としての名前、 ガストン・ベルネーム・ド・ヴィレールを用いた。Gaston Bernheim-Jeune, Gaston Bernheim de Villers.
ガストンの妻、シュザンヌ・ベルネーム=ジュヌ(1883-1961)。 旧姓シュザンヌ・アドレール。Suzanne Bernheim-Jeune, Suzanne Adler.
「桟敷席」では左からシュザンヌ、ジョス、ガストン、マチルドとなる。 ジョスとガストンは、1870年という同じ年の1月と12月に生まれた兄と弟で、 またマチルドとシュザンヌも姉妹であった。
兄弟の祖父はジョゼフ・ベルネーム=ジュヌ(1799-1859)というフランス系 ユダヤ人で、フランス・ドイツ・スイスの国境ミュルーズの近くで生まれ、 時計工場のある町ブザンソンに出てきて画材屋を始めた。
ブザンソンで結婚し生まれた息子に付けた名前はアレクサンドル。
アレクサンドル・ベルネーム=ジュヌ(1839-1915)は店に出る年齢になると やってくるウジェーヌ・ドラクロワ、カミーユ・コロー、ギュスターブ・ クールベといった画家たちと親交を深め、彼らの絵も陳列するようになった。
その中のクールベの助言を受けて、アレクサンドルはパリに移り、1863年、 ラフィット通り8番地に画廊を開いた。同年、妻のアンリエット・アドレール (1838-1906)との間にガブリエル(1863-1932)という娘が生まれている。
1870年の1月には長男のジョス、12月には次男のガストンが生まれた。
子供たちはベルギーのブリュッセルで生まれているようで、おそらく母親の アンリエットにはベルギーに実家があり、アレクサンドルもパリに出る前に ブリュッセルで絵画販売をしていて、互いに出会ったものと思われる。
ラフィット通りの画廊で扱っていたのはバルビゾン派の絵画だった。
1874年は印象派の誕生した年である。当初は周囲から素人画家とみなされて いた集団だったが、少しずつ支持者が増えていく。アレクサンドルは1890年頃 までにはモネ、ピサロ、ルノワールらの作品を取り扱うようになった。
画廊はジョスとガストンの時代となり、1899年のアンデパンダン展では、 ボナールが出品した「ブルジョワ家庭の午後」と題する大作を購入。以後 ボナールの絵画を取り扱うようになる。
1901年にはゴッホの最初の大回顧展を企画して大きな反響を得た。1906年に はボナールの個展を開催。こうしてベルネーム=ジュヌ画廊は前衛芸術を扱う 画廊として定評を得る。
デュラン・リュエル(1831-1922)がルノワールを見出し、アンブロワーズ ・ヴォラール(1866-1939)がセザンヌを見出したように、ベルネーム= ジュヌ兄弟はゴッホとボナールを見出したのだった。
ジョスとガストンは1906年、画廊をマドレーヌ大通り25番地に移転。
31才のガストンは1901年11月、17才の美しい娘、シュザンヌ・アドレール と結婚。ジョスも、シュザンヌのひとつ年上の姉・マチルドと交際を始めた。 60才のルノワールは、早くもこの年に姉妹の肖像画を描いている。
ジョスたちが結婚したのは、1911年11月と遅く、ジョスは42才、マチルドは 29才となっていた。まだ籍を入れていなかったジョスとマチルドの間に、のち に画廊の跡継ぎとなるジャン(1903-81)とアンリ(1907-1988)が生まれ、
ガストンとシュザンヌの間には、クロード(1902-1943)とのちに画家と なるジュヌヴィエーヴ(1907-1936)が生まれた。
後年、ルノワールの息子のジャン・ルノワールは、「ベルネーム家には、 すばらしい城館や、人の目を奪う邸宅や、飛行船や、5、6台の自動車があり、 美しい子供たちや、しっとりした肌の美しい婦人たちがいた」と記している。
この時代のベルネーム=ジュヌ画廊によって組織された主な展示会は、
1901年ゴッホ
1906年ボナールとヴィヤール
1907年セザンヌ
1908年スーラとヴァン・ドンゲン
1910年マチス
1912年ブータン、イタリア未来派
1916年アンリ・ルソー
1921年デュフィーとブラマンク
1922年モディリアーニ
1923年ユトリロ
1925年マルケ
1930年ゴーガン
また彼らの売り方も巧妙で、例えば美術館からコロー、ドーミエ、ドレクロ ワの照会があると、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌらの印象派絵画も併せ て持っていき、
印象派が求められる時代が来ると、ボナール、ヴュイヤールらナビ派や、ブ ラマンク、マチスといった野獣派の前衛絵画を持っていくのである。
兄弟は画家たちに対して、販売目的だけでなく、自分たちのコレクション用 にも制作を依頼した。
ルノワール作品:
1901年「シュザンヌ」「マチルド」、
1910年「ガストン夫妻」「マチルドと息子アンリ」「ガストンの娘ジュヌヴィエーヴ」
ボナール作品:
1908年「桟敷席」、
1920年「ベルネーム=ジュヌ兄弟」
(以上は現在、オルセー美術館所蔵)
カリエール作品:
「ベルネーム家の肖像」(個人蔵)
ヴュイヤール作品:
1905年「ジョス&ガストン・ベルネーム=ジュヌ夫妻」(ギ・パトリス・ドーバーヴィル所有)、
1912年「アート・ディーラー」(マクネイ美術館所蔵、テキサス州サンアントニオ)
「田園交響曲」(オルセー美術館所蔵)
「地中海」(個人蔵)
「地上の楽園」(シカゴ美術館)
「働く人々」(国立西洋美術館、東京)
1925年、ジョスとガストンは画廊をマドレーヌ大通りから、マティニョン 大通り27番地に移転。
1939年9月、ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻すると、イギリスと フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発する。ベルネーム= ジュヌ一族はユダヤ人だったので、戦況の悪化と共に身の危険が迫った。
1940年フランスの敗北が近づくと、ジョスは美術品を疎開させることを決め フランス南西部ボルドーに近い、ドルドーニュ県ラスティニャック城の友人の 元に、7点のセザンヌを含む30点ほどの絵画を送った。
6月ドイツ軍のパリ入城。北部フランスを占領下に置いた。ジョスたちは中 南部のリヨンへ脱出し、二人の息子ジャンやアンリと合流した。1941年71才 のジョスはこの地で亡くなり、埋葬された後、息子たちはスイスに逃れた。
絵画のいくらかは幼いころからの友人だった日本の外交官の助けでスイス への密輸に成功したが、パリの画廊に残された多くの美術品は、1941年遅く にドイツ人によってすべて差し押さえられた。
ガストン夫妻は絵画と共にモナコのモンテカルロに移り、そこで戦争が 終わるまで過ごしたので、それ以上ナチスに煩わされることはなかった。
しかし息子のクロードは、絵画を伯父のジョス所有のパリのホテルに保管 していたため、同じく1941年に没収されてしまった。
1944年になるとナチスの親衛隊はラスティニャック城を嗅ぎ付けてしまう。
イギリス系のオーナー夫妻と使用人は庭に並ばせられ、城からはトラック 5台分の戦利品が持ち去られた。彼らは引き出しが叩きつけられ木が割られる 音を聞き、また近くの村で市長が処刑される銃声を聞いた。
そしてアメリカのホワイトハウスとうり二つだった城は、耐火服に身を 包んだドイツ兵によって焼き払われた。家族はさらに別の処刑の音を聞かされ たが、命まで奪われることはなかった。
夫妻によれば、ドイツ兵には目利きがおらず、おそらく絵画は燃やされたの だという。巻かれたキャンバスがトラックに積み込まれたという少女の証言も あるのだが31点の作品は、大戦後、そして今もなお見つかっていない。
1940年から45年まで停止していた画廊の営業は、1946年ジャンとアンリに よって再開された。ジョスの代から行われていた美術書の編集・出版も引継 いで、二人はボナールのカタログレゾネの編纂に携わる。
叔父ガストンは1953年83才で死去。叔母シュザンヌは1961年77才で、母マチ ルドは1963年81才で相次いで亡くなった。およそ半世紀前、彼ら二組の夫婦を 描いた画家・ボナールのカタログレゾネは1965年に4巻本として出版された。
やがてベルネーム=ジュヌ画廊は次代の、ミッシェル・ドーバーヴィル (1950-2012)に引き継がれ、彼の死後は弟のギ・パトリス・ドーバーヴィル (1952-)が2018年4月まで経営した。
そしてギから経営権を引き継いだミッシェルの子共たち、ベアトリスと ステファン・ドーバーヴィルによって、ベルネーム=ジュヌ画廊の閉店が決定 され、2019年2月、150年の歴史に幕を降ろすことになった。
◆◆【4】作者ピエール・ボナール(1867-1947)について ◆◆
フランスの印象派に続く世代の画家・版画家で、市民の日常生活と身近な風 景を描き続けた。様式的にはナビ派及び親密派に分類される。素描による習作 を重ねながら、構図と色彩と形体を探求し、独自の絵画世界を創造した。
偉大な色彩家であったボナールは、若くして日本の浮世絵に強い影響を受け 素描、挿絵、石版画、ポスター、写真などの媒体を使った、グラフィックな 作家としても、よく知られている。
ピエール・ボナールは1867年、フランス南東部ドーフィネ地方出身の父・ ウジェーヌ・ボナール(1837-1895)と、東部ドイツ国境のアルザス出身の母 ・エリザベト・メルツドルフ(1840-1919)の間に生まれた。
ウジェーヌは陸軍省の事務局長を務めており、イゼール県のル・グラン= ランスには「ル・クロ(果樹園)」という別荘を持つ裕福な家庭だった。
ピエールは3人兄妹の真ん中で、兄シャルル(1864-1941)は化学者となり 香水を製造、妹アンドレ(1872-1923)は音楽家となり、のちに作曲家となる 音楽教師クロード・テラスと1890年に結婚した。
音楽家夫婦の家庭には、五人の子(ジャン、シャルル、ルネ、ロベール、 ヴィヴェット)が生まれ、「ル・クロ」別荘での3世代家族の団欒はボナール の数多くの作品に描かれることになる。
1885年18才のボナールは父の意向で大学の法学部に進んだ。
1887年には画塾アカデミー・ジュリアンに登録し、ポール・セリュジエ (1864-1927)、モーリス・ドニ(1870-1943)、ガブリエル・イベル (1867-1936)、ポール・ランソン(1861-1909)らと出会った。
1888年21才で法学士の学位を取得。10月、ゴーギャンに心酔した セリュジエが風景画を制作。この絵の制作理念に共鳴した仲間で「ナビ派」 を結成する。
この頃、ボナールはコダック社の最新カメラ、ポケット・コダックを入手 して写真を利用した絵画制作を手がけるようになった。
1889年登記所で働きながら、国立美術学校に入学したが、ボナールはアカデ ミックなやり方を受け入れることができなくなっていた。グザヴィエ・ルーセ ル(1867-1944)、エドゥアール・ヴュイヤール(1868-1940)と親交を結ぶ。
「フランス・シャンパン」のポスターのコンクールに応募。従妹のベルト ・シェドランをモデルにしたポスターは最優秀賞を獲得、父を説得して画家 の道に入った。
1890年国立美術学校で催された「日本の版画展」に感銘を受ける。
1891年アンデパンダン展に初出品。以後1947年まで定期的に出品し続けるこ とになる。同年ボナールの「フランス・シャンパン」のポスターがパリのあち こちに貼られ、ロートレックに多大な影響を与えた。
1892年、妹のアンドレと共に数多くの作品のモデルを務めた、従妹のベルト ・シェドランに求婚して断られる。
1893年秋、26才になったボナールはパリで少女と出会い、深い仲となる。 彼女は16才でマルト・ド・メリニーと名乗り、生涯を通してボナールのモデル を務めることになった。
1896年29才、アルフレッド・ジャリの舞台「ユビュ王」の美術や衣装を 担当。デュラン・リュエル画廊で初個展。
1899年32才、ヴォラール画廊により版画集が出版される。
1900年33才、アンデパンダン展に、妹アンドレ一家を大画面に描いた 「ブルジョワ家庭の午後」を出品。これをベルネーム=ジュヌ画廊が購入。 ベルネーム=ジュヌ兄弟は以後ボナールの作品を扱うようになる。
1903年、第1回サロン・ドートンヌが開催され、ボナールは1930年まで毎年 出品を続けた。
1906年マドレーヌ大通りに移転したベルネーム=ジュヌ画廊で個展。以後定 期的にボナール展が開かれる。
1908年ロンドン、アルジェリア、チュニジア旅行。翌年南仏サン=トロペに 長期滞在。1911年フランス北西部ノルマンディー地方のヴェルノンで制作。 イヴァン・モロゾフの依頼で壁画装飾の大作に挑んだ。
1912年45才、レジョン・ドヌール勲章受勲を拒否。8月、ヴェルノンに別荘 「マ・ルロット(私の家馬車)」を購入。翌年ハンブルク旅行。
1916年49才、ベルネーム=ジュヌ兄弟の依頼で、装飾パネルの大作シリーズ を手がけている。
同年、アメリカ人画家・映画監督のハリー・ラックマン(1886-1975)の愛人 だった22才のルネ・モンシャティ(1894-1925)、ボナールのかかりつけ医の 妻リュシエンヌ・デュピュイ・ド・フルネル23才(1893-1927)と出会う。
二人の若い女性はボナールのモデルを数多く務め、それぞれが画家と情熱的 な時間を過ごす。それはすぐマルトの知るところとなり、ルネを描いたスケッ チが火に投げ込まれたこともあった。
1921年54才のボナールはルネの両親から結婚の承諾を得たが、翌年マルトの 反対で立ち消えになる。
1924年パリのドリュエ画廊で大回顧展。68点を展示。
1925年8月、58才の画家はマルトと正式に結婚。このときボナールはマルト が本名ではなく、実名はマリア・ブルサン(1869-1942)であること、年齢も 56才で、8つも鯖を読んでいたことを初めて知った。
2週間後まだ31才だったルネは絶望して自殺。1924年に医者の夫と離婚して いたリュシエンヌも1927年に病死する。
1926年南仏カンヌを見下ろすの丘に位置するル・カネに、「ル・ボスケ (茂み)」と名付けられた別荘を購入。
1928年父祖の地ル・グラン=ランスの別荘を売却。この年ニューヨークで 大規模な個展。以後アメリカ各地でボナールの展覧会が行われるようになる。
1932年チューリッヒ美術館でボナールとヴュイヤールの大規模な展覧会が開 かれる。二人はずっと以前より親密派の代表的な画家と呼ばれていた。
1936年は、北西部ノルマンディー地方の港町・ドーヴィルで制作。パリでは 仕事ができないと手紙に書いている。
1937年パリ万国博覧会の装飾画(シャイヨー宮)制作。1938年ヴェルノンの 「マ・ルロット」売却。1939年からはル・カネの「ル・ボスケ」に隠棲。
ボナールの年譜を読むとき、このル・カネという安住の地に至るまでの一生 において、絶え間ない移転と旅行が繰り返されていることに気づく。
1886年以降、記録されているだけでも、17回の引っ越しと39回の旅行。
1893年に知り合ったマルトの不安定な心身によってそうせざるを得なかった 部分がいくらかはあるにしても、その多くはボナール自身の精神と芸術が、 絶え間ない変化を求め続けた結果であった。
最晩年に撮影された写真によって、アトリエでの制作風景を見ることができ るが、そこには芸術家然とした古めかしいイーゼルは見当たらない。パレット も使われていなかった。
ボナールは四角く切り取った幾枚ものキャンバスを、画鋲で壁に貼り付ける だけである。右手には一本の筆、左手には何も持たず、絵具を混ぜる場所は 後方に置かれたテーブル上の古雑誌である。
画家は雑誌の表紙から絵具を筆に付けると、壁まで行ってキャンバスにこす り付け、絵具がなくなるとテーブルまで戻った。絵が完成するまで、これを際 限なく繰り返すのである。
このようなやり方は、間違いを見つけたり、画面の微妙な調子を確認しやす いだけでなく、引っ越すにも、旅に出るにも好都合だったろう。
1940年同志ヴィヤールの死。1941年兄シャルルの死。
1942年75才、ほぼ半世紀を連れ添った妻・マルトが死去。
1943年ドニの死。1944年ルーセルとマイヨールの死。
ボナールは第二次大戦中の1940年からまる4年の間、ドイツ占領下にあって も、南仏で明るい光に包まれた絵を描き続けた。
ナチスの傀儡(かいらい)政権の役人がペタン元帥の肖像画の依頼にやって きたときには「ペタン元帥が良いモデルなら描いても良いが、もし私がそれを 気に入らなければ、私にはそれを破壊する権利がある」と言って追い返した。
大戦終結後の、1945年には写真家アンリ・カルティエ・ブレッソン (1908-2004)が訪れた。
1946年79才、6月にパリを訪れ、ベルネーム=ジュヌ画廊で大回顧展。 帰郷の際には姪のルネ・テラスが同行し、以後「ル・ボスケ」にとどまった。
8月、写真家ブラッサイ(1899-1984)が最晩年のボナールを訪れた。この 訪問から36年後、『わが生涯の芸術家たち』という本が出版されるのだが、
この本の中でブラッサイは、「忠実な伴侶を失ったボナールは、マルトの部 屋を鍵で閉ざし、二度と裸婦をデッサンすることも絵に描くこともなかった」 と書くことで、ひとつのボナール伝説を創造する。
筆者も本稿の準備に取り掛かるまでは、長年、この記述を鵜呑みにしていた のだがブラッサイは間違っていた。彫刻家のマイヨールが1941年によこした 豊満なディナ・ヴィエルニ(1919-2009)や、
20代で家政婦に雇われた健康的な美女、ムーキー・ヴェルネが、晩年の ボナールの裸婦像のモデルを務めていた。上機嫌でムーキーと肩を組む写真も 残っている。
10月、パリに最後の旅行。フォンテンブローにも数日滞在。
翌1947年1月ル・カネで死去。
サント=フィロメーヌ教会で葬儀が行われた。ボナールは、ノートル・ダム ・ド・サンジェ墓地でマルトの隣に眠っている。
◆◆【5】肖像画の内容について◆◆
この絵のタイトルは「ベルネーム兄弟夫婦の肖像」ではなく「桟敷席」で あるから集団肖像画ではなく人物構成画とみなすべきかもしれない。
けれども兄弟からの依頼は4人がオペラ座の桟敷席で観劇する構図であり、
おそらくボナールは、構成を考え抜いた末に正方形か、それに近い画面で 描き始めたと考えられ、当然、制作過程においては、ガストンの頭も描かれて いたに違いない。
この正方形の画面を想像してみたとき、ガストンの頭を頂点にした、明らか な三角形構図になると同時に、左側の垂れ幕と明るいオレンジ色の遠景が上部 に延長されるので、対角線がより意識される構成となる。
ガストンの向かって右に、より大きな闇の空間が生ずることになるが、或い はもう少し明るく、垂れ幕の模様が描き込まれていたかもしれない。
いずれにせよ、頭があったとしても、けっして失敗作というわけではなく、 充分ボナール画として成立したはずだが、この頭部をカットするという決定に より、画面は異様な緊張をはらむことになった。
注文主の兄弟はパトロンであり、往時ならばお抱え画家にとっての王侯に 匹敵する存在である。これまで、王侯の首を切った肖像画がこの世にあった だろうか?
1920年のある日、ボナールより絵が完成したという連絡が入り、さてあの オペラ座の肖像画がどう仕上がったかと楽しみにしていた画商一家にとって、 上1/4が切り取られた作品を見たときの衝撃はいかばかりのものだったか。
ジョス、マチルド、シュザンヌはまだ冷静でいられたが、当のガストンの 落胆といったら目も当てられないほどだった。
彼は本名とは別にガストン・ベルネーム・ド・ヴィレールという名を持つ 画家でもあったから、ボナールは、ガストンなら画面構成上の力学を理解 してくれるに違いないと考えたのだろうか。
或いは画家気取りの画商にガツンと一発食らわしたかったのかもしれぬ。
ピエール・ボナール『絵画についての所感』より
絵画、つまり視神経の冒険の転写。
よく自然が求めてくるものに従うというが、絵の求めに従うということもある。
絵画に実にふさわしいやり方とは、一つの大きな真実のために、たくさんの小さな嘘を重ねることである。
嘘と真のあいだのこの微妙な釣り合いにおいては、全ては相対的であり、全てがちょっとした匙加減の問題だ。誠実さも度を越すと 滑稽にみえたり我慢ならないものに思われてしまう恐れもある。
自然を描き出そうというのではない。絵のほうを生きているようにするということだ。
残念ながら筆者程度の凡庸な絵描きには、ボナールの意図するところが 読みきれないので、ガストンの首については置くことにして、これ以外の 部分を子細に眺めてみよう。
まず、この絵で最も強調されているのは右端のマチルドである。
彼女には強烈なコントラストが置かれている。明部の白と黄色とピンク、 これを取り囲む黒のドレスと暗い臙脂(えんじ)の背景と髪。マチルドの 上半身は背景から、そしてこのタブロー全体から浮かび上がって見える。
筆者は、幅15センチの図版から4メートルほど後退して眺めたのだが その効果は歴然である。
右端のマチルドのコントラストが最も強く、中央のガストンが次に続き、 控えめのコントラストが、左端のシュザンヌ、さらに最も奥まったところに いるジョスに置かれている。
そのため私たちの視線は、マチルド→ガストン→シュザンヌ→ジョスの順 で自然に流れていく。
左端の白っぽく描かれたシュザンヌは、顔が夫ガストンに向けられ、奥の 青っぽく描かれたジョスは、目線が夫人のマチルドへ注がれており、私たち の視線も画面の右方向に呼び戻される。
最右翼には複雑な彫刻の金オレンジに輝く柱があり、これと並ぶ最前列 にはマチルダ、その左に赤いベルベットの椅子、さらに最左翼の赤い垂れ幕 が描かれる。
シュザンヌのゆるく組まれた白い両手は、椅子の背に置かれ、その動勢を マチルドの左腕が受け止める。中央のガストンの右膝は、赤い垂れ幕の明部 とシンクロして、ベルベットの椅子に向かって一歩踏み出そうとしている。
シュザンヌとジョスは、何とか肖像画として認められる程度にはしっかり と描かれている。
最も美しく描写されたマチルドは、ルノワールの肖像画に描かれたときと 同じ衣装を着けている。舞台に投げかけてられた視線は、別に何かを見つめ ているようではなく、まさに画家の前でポーズを取るモデルのそれである。
これは3名の脇役を侍らせた、女主人マチルドの肖像画と呼んだ方が適当 かもしれない。
ブリタニカ百科事典の英語版には、ボナール芸術を"subtle"と称していて この言葉は、微妙な(ニュアンス)、とらえがたい、巧妙な、悪賢いなどと 訳されるのであるが、
彼の作品には、誠に見る者を誘導し楽しませる仕掛けがあふれている。
一般にボナールは、肖像画を描くことを嫌悪していたと伝わっている。 しかし、それは正確ではない。
あなたが「bonnard portraits」で、画像検索してみるならば、何百という 未知のボナール作品に会えるだろう。そのほとんどが、女性像なのだ。
ボナールが嫌っていたのは、依頼された肖像画なのであって、とりわけ男性 のそれをさしているのだろう。
〈参考文献〉
「ボナール展図録」栗田秀法他(愛知県美術館/中日新聞社)1997年
「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」イザベル・カーン監修 (日本経済新聞社)2018年
「もっと知りたいボナール 生涯と作品」島本英明著(東京美術)2018年
「わが生涯の芸術家たち」ブラッサイ著 岩差鉄男訳(リブロポート)1988年
「世紀の大画商」瀬木慎一著(駸々堂出版)1987年
「油絵のマチエール」岡鹿之助著(美術出版社)1954年
「洋画メチエー技法全科の研究」黒田重太郎・鍋井克之共著 (文啓社書房)1928年
"Bonnard" Nicholas Watkins(Phaidon Press Limited)1994
"The Rape of Europa: The Fate of Europe's Treasures in the Third Reich and the Second World War" Lynn H.Nicholas(ALFRED A.KNOPF PUBLISHING) 1994
"The Lost Masters: World War II and the Looting of Europe's Treasure houses" Peter Harclerode, Brendaon Pittaway(Welcome Rain Publishers) 2000
"The New Encyclopedia Britanica"
"Musee d'Orsay" Pierre Bonnard, La loge, Notice de l'oeuvre, Commentaire de l'oeuvre www.musee-orsay.fr/
"Geneanet" Reinventons la genealogie www.geneanet.org/
"The Famed Paris Gallery Bernheim-Jeune, Which Held the First van Gogh Retrospective in 1901, Has Closed" Kate Brown & Naomi Rea, February 14, 2019 news.artnet.com/market/bernheim-jeune-1465564
◆◆【6】次号予告◆◆
前回の予告編では、「ベルネーム=ジュヌ兄弟の肖像」をメインとし、 「桟敷席」を参考図としておりました。前者の方が、二人の容貌がきっちりと 描かれ、肖像画として成立するものだったからです。
しかし、その内容を検討し、気づいたポイントを書き出しましたところ、 200字程度で尽きてしまうのです。これはボナール自身も、描いていてあまり 面白くなかったんじゃないかとも思えてきました。
これに比べて、「桟敷席」の方は美しい女性が二人も登場し、突っ込み どころが満載でしたので、こちらに切り替えてしまいました。
さて次号では、ピカソの作品を紹介します。
ピカソは、ブラックと二人三脚で開発したキュービズムという手法を用いて ヴォラールという画商の上半身像を解体します。
20世紀前半の芸術は、美術評論家のピエール・フランカステルをして 「肖像画は消滅した」と言わしめました。
「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像画」について彼は「出来上がった作品 は主題と人間そのものを消し去ることで自律性を獲得する」と述べています。
次回、ピカソ作「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像画」をどうぞご期待 ください。
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