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【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年
信長、信玄、家康、モーツァルト…古今東西の肖像画辞典!
   
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 【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年          No.0023

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                          2014年09月01日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ
……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――――――――□

【1】 ホルバイン作「サー・トーマス・モアの肖像」
    (フリック・コレクション、ニューヨーク)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主について
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告
【7】 編集後記

□――――――――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】「サー・トーマス・モアの肖像」━━━━━━━━━━━━◆

 画家は当代隋一の思想家や作家を友としていました。中でも白眉といえるの
がエラスムスとトーマス・モアです。

 エラスムスの『愚神礼讃』、トーマス・モアの『ユートピア』は教科書で
必ず取り上げれれる名著であり、刊行から500年になるというのに多くの知識
人に影響を与え続けて来ました。

 特にヘンリー8世に大逆罪で処刑されたトーマス・モアは20世紀になってか
ら殉教者として列聖されていますし、マルクス主義者からは「近代社会主義の
父」と呼ばれているのです。

 ホルバインは二人の肖像画を描いています。20代で描いたエラスムスは詩的
に、30代で描いたトーマス・モアはそこに剛毅の塊が存在するかのようながち
がちのリアリズムで。

 今回は「トーマス・モアの肖像」をメインに、「エラスムスの肖像」も併せ
て紹介します。

★★★ホルバイン作「トーマス・モアの肖像」はこちら
⇒⇒⇒ https://www.shouzou.com/mag/p23.html


◆【2】肖像データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名: サー・トーマス・モアの肖像
作者名: ハンス・ホルバイン
材  質: テンペラ(オーク板)
寸  法: 74.9×60.3cm
制作年: 1527年
所在地: フリック・コレクション(ニューヨーク)
注文者: 本人
意  味: モアはイギリス国王ヘンリー8世の廷臣であることを表す公的な衣
装を身に着けている。

 これは、家族や来客、子孫に対して、顔立ち・人となりと併せて、現在の彼
の地位を伝えることを目的とする肖像画であった。

 また彼は、当時スイスに滞在していた親友、デジデリウス・エラスムスから
ドイツ人画家ホルバインのパトロネージュ(支援)を依頼されていた。エラス
ムスは有名な思想家・著述家である。

 そのため、モアが画家に絵を発注することで、エラスムスの友情に応えるこ
とにもなった。


◆【3】像主 サー・トーマス・モア(1478-1535)について  ━━━━◆

 イギリス・ルネサンス期の人文主義者・政治家。有名な書物「ユートピア」
の作者。ヘンリー8世の宮廷において大法官まで昇進したが、カトリック教会か
ら離脱する王の決定に賛同しなかったために、反逆罪に問われ斬首された。死
後400年めにローマ教会より聖人に列せられた。

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 ひとことでいうと上のような人物であるが、「人文主義」という言葉を確か
めておきたい。

 「人文主義」とは、人間性・人間らしさ・人道・博愛を尊重する態度・思想
である。英語読みでヒューマニズム、フランス語読みでユマニスムと表記され
る。

 歴史的には人文主義は、ルネサンス期のイタリアから全ヨーロッパに広まっ
た精神運動であり、ギリシャ・ローマの古典文化の研究を通して、教会中心の
考え方に異を唱え、人間性の解放を訴えた。

 ルネサンス期の人文主義者を列挙すると

《伊》ダンテ(1265-1321)、ペトラルカ(1304-75)、ボッカチオ(1313-75)
《独》ロイヒリン(1455-1522)、メランヒトン(1497-1560)
《蘭》エラスムス(1466-1536)
《英》トーマス・モア(1478-1535)、シェイクスピア(1564-1616)
《仏》ラブレー(1484-1553)
《西》セルバンテス(1547-1616)

 付言すると、人文主義者たちは社会改革と直接の交渉を持たなかった人々で
あり活動家ではない。このことが同時代の大思想家であるルター(1483-1546)
やカルヴァン(1509-64)が含まれない理由と思われる。

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 サー・トーマス・モアの生涯

 1.生い立ち

 トーマス・モアは1478年2月6日ロンドンに生まれた。

 父ジョン・モアは、ロンドンのパン製造業者ウイリアム・モアとビール製造業
者の娘ジョハンナ・ジョイの子で、弁護士として成功したのち判事となった。母
アグネス・グレンジャーは裕福な羊毛輸出商トマス・グレンジャーの娘である。

 彼らの息子のトーマスは、聖アントニー校でラテン語の初歩を学ぶと、カン
タベリー大司教ジョン・モートンの侍僕となった。

 彼はヘンリー7世の大法官であり、枢機卿にも列せられた第一級の政治家・聖
職者であるが、幼いトーマス・モアのことを、「食卓の給仕をしているあの子
は、今にすばらしい人物になりますよ」と語ったと伝わっている。

 モートンの薦めでモアは2年間オックスフォードでラテン語を学んだところ
で父ジョン・モアによってロンドンに呼び戻され、1494年ニュー法学院、つい
で1496年にはリンカーン法学院に入学した。

 1499年の夏、22才のトーマスは、モア家の友人マウントジョイ卿の紹介で、
著名な人文主義者・作家であるロッテルダムのエラスムスと出会う。エラスム
スは8才年長だったがすぐにふたりは意気投合した。

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 トーマス・モアはルネサンスの最盛期に生きていた。

 「ネサンス」とはフランス語で誕生のことであるが、「ル・ネサンス」では
新たなる誕生・再生を意味し、特に14〜16世紀、イタリアで萌芽し全ヨーロッ
パに流行した古代ギリシャ・ローマの文化や芸術の復興運動を指す。

 父の意向に反して文学に惹かれていたトーマスは、ギリシャの古典をラテン
語を通してではなく、原典から紐解く必要性をつねづね感じており、1501年に
学習を始めた彼はやがてギリシャ語に通暁するようになった。

 1499年から1503年にかけては、ファーニヴァルズ法学院で講義を行って生活
費を稼ぎながら、1501年には法廷弁護士の資格を得た。同時に祈りの生活や禁
欲主義に憧れていたこともあって、ロンドンのカルトジオ修道会に入り浸る。

 静かに瞑想しながら将来進むべき方向を見定めていたに違いない。古典への
興味、カトリック信仰、性欲の問題、聖職者或いは、父の定めた法律家への道。

 そして平信徒として生きる決意をしてカルトジオ修道会を離れたとき、トー
マス・モアのモラトリアム期間は終わり、職業法律家としての道が始まった。

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 1504年ロンドンの下院議員となる。このときの議会は国王ヘンリー7世の特別
徴収税を承認するためのものだったが、若いトーマスが「法外な要求である」
と公然と非難したことで、議会は、国王の要求の半額以下に議決してしまった。

 当のトーマスにとって、これは高くついた。ヘンリー7世は「髭もはえていな
い若造」によって、企てが覆されたことを知って激怒。モア家に対して復讐を
実行した。

 トーマスの父、ジョン・モアは言い掛かりをつけられてロンドン塔へ送られ
100ポンドの科料を支払うはめになり、トーマス自身も、ヘンリー7世の存命中
はいかなる昇進の道も奪われてしまった。

 この政治権力による生涯初めての挫折を経験したモアは深く反省し、地道な
弁護士活動をしながら信仰に拠りどころを求めた。文学にも沈潜しイタリアの
人文主義者ピコ・デラ・ミランドラに傾倒して彼の伝記『ピコ伝』を翻訳した。


  あなたが怒りに駆られるとき
  神であり、すべての人たちの中で最上の方が
  蔑まれ、鞭打たれるままにされ、
  二人の強盗の間で十字架に打ちつけられ
  数かぎりの非難と恥辱を浴せられ
  しかもその御胸からは少しの怒りや悔蔑のしるしもなく、
  あらゆる苦しみにじっと耐えられたことを思いなさい。

                  ピコの12の規則より


 モアの訳した『ピコ伝』は自らの生涯の鑑となり指針となった。

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 2.モアの家族

 1504年モアは26才で妻をめとった。エセックス州の裕福な地主ジョン・コル
トには3人の娘がおり、モアのお気に入りは最も美しい次女だったが、妹に先
を越されたときの、姉の気持ちを考慮して長女を選んだ。

 新婚夫婦はバックラーズベリーに新居を構えた。新婦ジェーンは、夫から音
楽とラテン語を厳しく仕込まれた。ラテン語は英語を解さない外国人の客をも
てなすために必要とモアが考えたためだった。

 17才のほんの田舎娘に過ぎなかったジェーンは、夫に激しく抵抗し、われと
わが身を呪った。彼女のラテン語の習得は遅々として進まなかった。

 翌年ふたりの間には長女マーガレットが生まれた。エラスムスの2回目の渡英
はこの年のことで、気のおけない友人であるモア家には長いこと滞在した。の
ちにエラスムスはモアの家庭が幸福で愛情に満ちたものであったと語っている。

 1506年次女エリザベス誕生。6月エラスムスはイタリアに向け旅立つ。
1507年三女シシリー誕生。1508年長男ジョン誕生。

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 1509年ヘンリー7世の死去に伴い、息子のヘンリー8世が18才で即位。兄嫁で
あった寡婦キャサリン・オブ・アラゴンを王妃に迎えた。この代替わりをモア
は諸手を挙げて祝福した。

 この年の著作『警句集』には若いヘンリーとキャサリンに捧げる頌詩(しょ
うし)を書いた。(後年ヘンリーの暴政のためにモアは処刑されたことを知る
私たちには歯の浮くような詩句が並んでいる。)

 エラスムスはイタリアから戻ると8月からモア家に再び滞在。旅行中に思いつ
いた風刺文『愚神礼讃』を仕上げてモアに献じた。賢人モアの名から愚女神モ
リアを創作することができたので感謝のしるしに捧げる、という洒落であった。

 9月になるとモアはロンドン絹織物商組合を代表して、アントワープ市と交
渉を行う。1510年にはヘンリー8世の最初の議会での議員となり、ロンドン市
の司政長官補にも任命されて行政に参与。彼の年収は400ポンドにも達した。

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 1511年妻のジェーン・コルトはお産のために23才で亡くなった。モアと出会
ってからは、子供を生むための生涯だった。モアは1ヶ月の内に、絹織物商の
未亡人アリス・ミドルトンと再婚した。

 子供たちの世話と家内の管理を最優先させたためであるが、先妻ジェーンの
ことは悔いとなって心を離れることがない。モアより七つ年上だったアリスに
は、音楽の手ほどきをする一方でラテン語を無理強いはしなかった。

 モア家にはアリスの連れ子の娘と養女のマーガレット・キッグス、そして弁
護士の仕事を通じて養育を引き受けることになった二人の被後見人アン・クリ
セカーとジャイルズ・ヘロンが加わった。

 後にアンはモアの長男ジョン・モアと結婚し、ジャイルズは三女のシシリー
と結ばれる。

 養子・被後見人を含めたモア家の子供たちは8人となり、それぞれに雇われ
た家庭教師たちによって、ラテン語・ギリシャ語、古典文学、宗教・神学、哲
学、論理学、数学、天文学という王家に匹敵するような教育が施された。

 モアのお気に入りは最も優秀な長女のマーガレット・モアだった。彼女は、
後にモアの伝記作者となるウィリアム・ローパーと1521年に結婚してマーガレ
ット・ローパーとなる。

 モアの家庭は女子高等教育の先駆的な試みの場であった。皮肉屋のエラスム
スも「プラトン・アカデミー」と絶賛している。

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 3.すべての季節の人

 モアは1513年から14年にかけて『リチャード3世王の歴史』を執筆した。これ
は後年ウィリアム・シェークスピア(1564-1616)の作品『リチャード3世』の
原資料として用いられた。

 1515年はモアの転機となった年である。ロンドン商人の推薦により、通商交
渉の国王使節として5月にブルージュに派遣された。これが王室との関わった最
初の出来事となる。

 交渉は長引き10月に帰国するまでアントワープの友人ピーター・ヒレスの邸
に滞在した。そして彼の最も有名となる作品『ユートピア』の第2部を書いた。
帰国後の翌年3月に第1部を完成すると年末には出版した。

 王室の仕事に携わることでモアはますます多忙となったが、旺盛な執筆活動
が止むことはなかった。それではどうやって創作のための時間を得ていたのか。

 いつの世でも、宮仕え人の時間の捻出方法は同じである。削ることのできる
のは睡眠時間だけであり、モアは、自身を少ない睡眠時間に慣らしていった。
こうして、早朝の午前2時から7時の間を祈りと創作のために確保した。

 そうやってどんなに多忙なときにでも常にたくさんの本を書き続けた。それ
は本当に彼にとっての至福の時間であったろう。

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 1517年ヘンリー8世の要請で王宮の参事会員となり、ロンドン市の司政長官
補職を辞任。英仏通商交渉のため、大陸唯一の英国領のカレーに派遣された。

 1520年国王と大法官トーマス・ウルジーに随行。カレー近郊の平原で催され
た一大国際イベント「金襴の陣」でヘンリー8世とフランス国王フランソワ1世
の会見があり、モアも同席した。その後ブルージュでハンザ同盟との通商交渉。

 この年、英語教師・文法学者ロバート・ウィッティントン(1480-1553頃)
がトーマス・モアのことを“a man of all seasons”と書いて賞賛した。(四
季の人、万機の人とも訳される。)


  モアは天使のような機知と並外れた博学の人である。彼は多くの素晴らしい
 徳を有している。私は彼のような人間を知らない。一体どこにいるだろうか、
 優しさ、謙譲、愛想のよさ、時に応じて、信じられない陽気さと、遊び心、そ
 して、断固とした真面目さを持ち合わせた人、つまり、すべての季節の人が。

(拙訳)


 エラスムスも、1521年のフランス人に宛てたラテン語の手紙の中で、モアの
ことを『すべての季節の人』と称えている。

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 同じ年ドイツのマルティン・ルターがローマ教皇によって破門された。この
事件がきっかけとなって宗教改革の波が立ち始める。

 モアは財務次官に任ぜられ騎士としてサーの称号を与えられた。またヘンリ
ー8世の、ルターを反駁する『七秘蹟擁護論』の執筆を手伝った。この書の出
版により、ヘンリーは「信仰の擁護者」という称号を教皇から与えられている。

 7月には長女マーガレットがウィリアム・ローパーと結婚。8月には大法官ウ
ルジーと共にカール5世とフランソワ1世の和解会談に列席。10月にはブルージ
ュでの通商交渉。1523年には下院議長となる。また『反ルター論』を執筆。

 1524年にはオックスフォード大学執事長就任。チェルシーに地所を購入する
と大邸宅を建てた。

 邸には小動物園もあった。家族は年毎に増え最盛期には使用人も合わせると
百人近い人がいた。モアは静謐な時間を得るための空間がさらに必要となり、
自分のための新館を建てた。そこにも庭園と図書室、回廊、礼拝堂が作られた。

 1525年ランカスター公領司政長官、対仏講和条約委員、ケンブリッジ大学執
事長を拝任。

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 1526年、エラスムスの紹介でドイツ人画家のハンス・ホルバインがバーゼル
からやって来てモア宅に滞在した。モアはホルバイン作の「エラスムスの肖像」
を贈られていたから、画家の才能はかねてより熟知していた。

 モアは画家に夫婦の肖像画と家族の集団肖像画を発注した。

 「サー・トーマス・モアの肖像」は現在ニューヨークのフリッツ美術館の所
蔵となっているが、「モアの家族の肖像」は火災で失われて、模写作品しか残
っていない。下絵として描かれた素描はバーゼル市立美術館に現存する。

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 4.天国への階段

 国王ヘンリー8世は、いつまでたっても男子の王位継承者を生むことのない妻
キャサリン・オブ・アラゴンに飽き飽きしていた。これが英国を揺るがす大ス
キャンダルの始まりであった。

 1527年ついにヘンリー8世は、王妃キャサリンを離縁して、アン・ブーリンと
結婚することを望み、兄嫁キャサリンとの結婚の合法性について、ウルジーや
モア、そしてロチェスター司教のジョン・フィッシャーに相談している。

 1529年モアはフランス、イギリス、神聖ローマ帝国の講和条約交渉でフラン
ス北部のカンブレーに派遣された。大法官・枢機卿ウルジーは、ローマ教皇ク
レメンス7世から、ヘンリー8世の離婚の許可を得ることができなかった。

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 若く魅力的なアン・ブーリンとの結婚を熱望していたヘンリー8世はかんしゃ
くをおこし、ウルジーを罷免。「カトリック信仰の擁護者」は、カトリック教
会との決別を画策し始める。

 ウルジーに代わってモアが大法官に任命され、同時に上院議長も勤めること
になった。モアはエラスムスへの手紙に「あなたなら私の立場を哀れんでくだ
さるでしょう」と書いている。

 一方で信仰心厚いカトリック信者だったモアは、使命感を持って異端者たち
(ルター派)に立ち向かった。ドイツ商館に踏み込んだり、異端審問や拷問を
も自ら行い、3年という短い在任期間に6名の異端者を処刑している。

 また愛娘マーガレットの夫ローパーがプロテスタント信仰を持っていたので
改宗するよう説得した。このように信仰に関して頑固一徹なモアにしてみれば
改革派であるアン・ブーリンが王妃になることに賛成ではなかったろう。

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 1530年トーマス・モアの父のジョン・モアが死去。トーマス・ウルジーは獄
中で病死した。同年ヘンリー8世の意思により、イギリス国内の全カトリック
聖職者が『教皇尊信罪』に問われた。

 ローマ教皇の勅書を受けることは国と王の利益に反するというのである。王
の下では改革派のトーマス・クロムウェルが存分に腕を振るっていた。

 1531年ヘンリーは自分をイギリス教会の最高首長として認めるように、カン
タベリー聖職者会議に要求し、認められた。ロチェスター司教のフィッシャー
と大法官モアは密かに心を痛めていた。

 1532年1月、上院はローマ教皇庁への『聖職禄上納禁止法』を可決。5月10日
ヘンリーは王の許可無く聖職者会議が立法することを禁止。5月16日聖職者会
議は『聖職者の屈服宣言』をヘンリーに提出。

 この日、モアは大法官を辞任した。その結果、収入の大半を失った。8月に
なると自ら墓碑銘を書きしるした。

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 1533年、ヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚。議会では、ローマ教皇庁へ
の上訴を認めない『上訴禁止法』が可決された。カンタベリー大司教クランマ
ーはヘンリーとキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚が無効であると宣言した。

 6月アンの戴冠式にモアは欠席。この件では、国王の不興を買ったに違いな
かった。9月7日、ローマ教皇によりヘンリー8世の破門が宣告されたその日、
新王妃アン・ブーリンは、未来のエリザベス1世となる女の子を出産した。

 1534年3月、ヘンリーとアンの結婚を有効とし、生まれる子供を王位継承者と
する『王位継承法』が成立。この法律への宣誓拒否を大逆隠匿罪と規定し、キ
ャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれた長女メアリーの存在は無視された。

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 4月、モアは宣誓を拒否したため逮捕されロンドン塔に送られた。彼は『王
位継承法』に反対ではなかったが、その宣誓文書にローマ教皇の首位権を否定
する文言があったため宣誓しなかった。

 若き日のモアが大きな影響を受けたカルトジオ修道会の関係者たちや、ジョ
ン・フィッシャー司教も宣誓を拒否して投獄された。

 「カトリック教会を否定することなど絶対にできない」

 教会の否定、それはすなわち、モア自身が、あれほど忌み嫌っていた異端者
に堕することを意味する。信仰というきれいごとだけでは済まされない。モア
自らが異端者を裁いた当事者なのだから。

 5月、キャサリン・オブ・アラゴンが宣誓を拒否。

 11月『国王至上法』の制定。イギリスの教会はすべて、ローマ教皇庁から完
全に独立した別箇の教会となった。続いて『反逆罪法』の成立。国王の「イギ
リス国教会の首長」という称号を否認する者は斬首刑に処せられることになる。

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 妻のアリスは、ロンドン塔に収監されている夫トーマス・モアを初めて訪ね
たときに云った。

「これはまあ、驚きましたね。こんな狭苦しい汚い牢屋に閉じ込められて平気
でいるなんて。あなたがみんなと同じ様になさりさえすれば、晴れて自由の身
になれるのに。

 チェルシーには立派な家があり、図書室も、書物も、回廊も、庭園も、揃っ
ていて、私や子供たちや家の者たちと楽しく暮らせるじゃありませんか。」

 夫はかたくなに言葉を返した。「この家は私の家と同じくらいに、天に近く
はないだろうか。」

 モアは獄中にあって『キリストの受難に関する論文』『聖体に関する論文』
『苦難に対する慰めの対話』『キリストの悲しみ』を著述した。

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 1535年4月29日、3名のカルトジオ修道院長に死刑宣告。

 5月20日ローマ教皇パウロ3世がフィッシャーを枢機卿に任命した。この知ら
せはヘンリー8世は激怒させた。「そうしたければ教皇は枢機卿の帽子を奴に
送ればよい。それを被る頭をなくしてやる」と怒鳴り散らした。

 6月17日フィッシャーに死刑宣告。19日カルトジオ修道会士の処刑。単なる
斬首ではなく八つ裂きの刑だった。22日、フィッシャーの処刑。

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 7月1日ウェストミンスター・ホールで、『国王至上法』否認のためのモアの
裁判があり、有罪と評決される。

 大法官オードリーの有罪宣告をさえぎって、モアは最終弁論に臨み、

 「この国は全キリスト教社会の一員でありその一小部分に過ぎないから、キ
リスト教社会の一般法と抵触するような特別法を作ることはできないし、キリ
スト教社会の公会議に反して、一国の議会に私の良心を従わせる義務はない」

 と宣誓拒否の理由を述べたあと、反逆罪による死刑宣告を受ける。

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 ウエストミンスター・ホールでの長い尋問のあと、兵隊に護衛されてロンド
ン塔に戻ると、長女のマーガレット・ローパーが待っていた。

 彼女は父を見つけるやいなや飛びついて、首を抱きかかえてキスをした。

 モアは7月5日、獄中からの最後の手紙に、娘に宛てて書いている。

「あなたの今日の様子は嬉しかった。世間的なマナーなどに構っている余裕の
ないあなたの態度がよかった。

 さようなら、いとしい娘よ、私のために祈って下さい。」

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 7月6日、モアは死に際して

 「私はカトリックの信仰をもって、カトリックの信仰のために死ぬ」「神が
王に良き助言を与え給うよう、王のために祈ってほしい」「私は王の良きしも
べとして、しかし先ず第一に神のしもべとして死ぬ」

 と言い残す。

 午前9時前、タワー・ヒルで処刑。トーマス・モアは58年の生涯を閉じた。

 遺体は彼の養女であったマーガレット・キックズが引き取った。切り離され
た頭部は、ロンドン塔の橋桁に、1ヶ月の間晒し首にされた後、マーガレット
・ローパーが取り戻した。

 おそらく彼女が、晒された場所と欠けた歯のことを失念していたら、見分け
ることができないくらいに、トーマスの容貌は失われていた。

---------------------------------------------

 モアがロンドン塔の牢内でいつも手元に置いていた『時祷集』の欄外には、
モア自身による書き込みがされていた。


  よき み主よ み恵みをお与え下さい、世は空しと観じますよう
  私の心をおんみに堅くすえ、世人のうわさにとらわれませぬよう
  孤独に甘んじ、世間的交わりを求めぬよう

  徐々に世を捨て切り、心を世間的営みから解き放ちますよう
  神を想って喜び、そのおん助けを乞いもとめますよう
  犯した罪を歎き悲しみ、その償いのために苦難をじっと堪えますよう

  この世において煉獄を喜んで耐え忍び、逆境を喜びますよう
  裁き手の来られる前にみ許しを乞い願い、キリストが私のために苦しんで
  下さった御受難をいつも心に想い浮かべますよう

  空虚な冗舌を避け、軽薄愚昧なはしゃぎと楽しみを遠ざけますよう
  不必要な娯楽を切り捨て、キリストをかちとるためには 厳正の財産、
  友人、自由、生命、その他すべてを失っても意に介しませぬよう


            『獄中のモアの祈り』(澤田昭夫訳)より


◆【4】作者ハンス・ホルバイン(1498-1543)について ━━━━━━━━◆

 1.人文主義者エラスムスとの出会い

 彼の父は、皮革職人の息子から画家になったハンス・ホルバイン(1465-1524
;大ホルバイン)で当時ドイツ・アウグスブルクを代表する画家だった。肖像
画・宗教画共に優れた作品を多く残している。

 母は若くして亡くなったらしく名は知られていないが、彼女の兄ハンス・ブ
ルクマイヤー(1473-1531)はアウグスブルクの有名な画家・版画家で、父の
トーマス(1444-1523)もまた同業という画家一家に育っている。

 さらにハンス・ブルクマイヤーは、父ハンス・ホルバインの妹アンナを娶っ
ているので、両家には強いつながりがあった。

---------------------------------------------

 同名の父の元で修行を始めたハンス(小ホルバイン)は十代半ばに遍歴徒弟と
なってスイス・バーゼルに赴き、当地の指導的な画家ハンス・ヘルペスト(1470
-1552)に弟子入りした。

 彼は画家となるには恵まれ過ぎるほどの家庭環境に育っており、造形芸術だけ
でなく文学にも関心を持っていた。また宗教画を描くためには聖書に通暁する必
要もあったから、ラテン語塾に通い始めた。ラテン語は国際共通語である。

 ハンスのラテン語の教師はオスヴァルト・ミュコニウス(1488-1552)で、
ルネサンス最大の人文主義者デジデリウス・エラスムス(1469-1536)の若き
友人だった。塾の教本にはエラスムスの著書『愚神礼讃』を使っていた。

 1515年頃、ラテン語塾にハンスの四つ上の兄アンブロージウス・ホルバイン
(1494-1519)が遅れて加わった。彼は近県での仕事を終えて、バーゼルにや
って来たのである。

 教師ミュコニウスは、著名な画家大ホルバインの息子たちが塾に揃ったこと
で或る企画を思いついた。“『愚神礼讃』の本の余白に挿絵を描いてもらって
著者のエラスムスに見せたら喜ぶだろう。”

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 この企ては1515年の暮れに10日ほどで完成した。本の余白にペンで描かれた
82枚の挿絵。その内ハンスの手になるものは79枚という。これがハンス・ホル
バインの記録に残る最初の作品となった。

 『愚神礼讃』或いは『痴愚神礼讃』と訳される書物はエラスムスから親友ト
ーマス・モアに奉げられたものである。阿呆礼讃・愚行礼讃とでも言う方がタ
イトルとしてはふさわしいかもしれない。

 愚かしい行為を司る女神・モリアが演壇に立ち、人間のありとあらゆる愚行
を面白おかしくあげつらねる。彼女の長々とした演説が『愚神礼讃』のすべて
である。

 彼女には七名の侍女「自惚れ」「追従」「忘却」「怠惰」「逸楽」「軽躁無
思慮」「放蕩」と二柱の神「美食」「深き眠り」が仕えている。

 「快楽、欲望に振り回される人の一生。けれど誰一人自分を不幸と思ってい
ないではありませんか。それはすべて私のなせる業」とモリアは自画自賛する。

 作者エラスムスの意図するところは、滑稽な読み物の形を借りて、聖職者、
王侯貴族の利己主義的な行為を皮肉り、自省を促すことであったろう。これに
17才のホルバインは絶妙な挿絵を描いた。

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 年が明けて、イラスト付きの自著を見せられたエラスムスは、若き才能に感じ
入ったに違いない。彼は印刷・出版のメッカだった大学都市バーゼルの業者にホ
ルバイン兄弟を紹介し、兄弟はフローベン印刷工房で木版画挿絵の仕事を得た。

 同年、ハンス・ホルバインの最初の重要な仕事である、バーゼル市長ヤーコ
プ・マイヤー夫妻の肖像画を制作。

 1517年ハンスは父に従ってルツェルンに行き、壁画制作やステンドグラスの
下絵制作を行った。これらの仕事を終えたハンスは北イタリアを訪れて、レオ
ナルド・ダ・ヴィンチやマンテーニャの作品に触れたと考えられている。

 1519年バーゼルに戻ったハンスは、早世した兄アンブロージウスの工房を引
き継ぎ、画家組合ツム・ヒメルに加入。親方(マイスター)となった。

 同年バーゼル大学の法学教授ボニファチウス・アメルバッハの肖像画を制作。
(アメルバッハ家は、後年ホルバインの膨大なコレクションを入手、これは現
在のバーゼル美術館の至宝となって伝わっている。)

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 2.『死の舞踏』

 翌1520年、22才にして画家組合の総代となる。そして皮革職人の寡婦だった
エルスベト・ビンツェンシュトックと結婚することで、バーゼルの市民権を得
ることができた。

 1521年、エラスムスがバーゼルに定住。ホルバインとの交友が復活する。出版
業者から依頼を受け、1524年にかけて多数の挿絵・木版画下絵を制作。この頃ド
イツのマルティン・ルターが破門宣告を受け、宗教改革の波が拡がり始める。

 1523年『エラスムスの肖像』を3点制作。エラスムスはイギリスの友人、トー
マス・モアとカンタベリー大司教ウォーラムに1点ずつ贈っている。

 トーマス・モアに贈った胸像は現在ルーブル美術館にあり、ウォーラムに贈
った半身像は、イギリスのナショナル・ギャラリー所蔵であるが、後者にはラ
テン語で興味深い書き込みがある。

 1つはエラスムスの座右の銘「ヘラクレスの功業」であり、自身の『格言集』
にも収録されている。意味するところは「他人には確かに役立つが自分には嫉
妬のほかになにも与えない労働」のことで彼は自らの著述業をこう断じている。

 もう1つは25才のホルバインの言葉。「私はジョハネス・ホルバイン。私を
真似することは批判することより易しくはないでしょう」というものである。
いずれも作家の矜恃というべきだろう。

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 これらの肖像画を描いた翌年、ホルバインはそのプライドが木っ端微塵にな
る経験をした。

 バーゼルの街には宗教改革の波が押し寄せ始めていた。偶像崇拝を禁じる改
革派が優勢になると、画家や彫刻家の仕事は失われてしまう。

 ホルバインはエラスムスの勧めもあっただろう、仕事を求めてフランスに旅
立つのである。肖像画見本として『エラスムスの肖像』の残された1点を持参
していた。

 願わくばフランソワ1世(1494-1547)の宮廷画家とならん。フランス王は
ミラノから今は亡きレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)を招いた有名な
パトロンであった。

 しかし、パリの宮廷には若きホルバインの上を行く絵描きが存在した。

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 ジャン・クルーエ(1480-1540)44才。フランドル地方(ブルゴーニュ領ネー
デルランド)出身の画家である。ファン・アイク(1495-1441)、ジャン・フー
ケ(1420-1481)の後継者と呼べるような緻密で絢爛たる様式を確立していた。

 ホルバインの持ち込んだイタリア・ルネサンス風の肖像画は、清新ではある
けれども見劣りのするものでしかなかった。彼はフランス宮廷人に体よく門前
払いを食ったはずである。

 彼はジャン・クルーエの工房を訪れ、頭を低くして直かに教えを請うたと思
われる。そしてジャン・クルーエの多色チョーク素描の技法を学ぶと、いくつ
か素描による写生を『エラスムス像』と共にバーゼルに持ち帰った。


  バーゼルを中心に前半生において制作された肖像画や宗教画にはイタリア
・ ルネサンスの影響が強く見られ、ロンドンにおける後半生で制作された一
連の 肖像画にはフランドルやフランスの影響が顕著である。


 『アンナ・フォン・クレーフェの肖像』の号ではこう書いたが、これはフラ
ンスでの失敗がホルバインの画風を変えたと見てよいだろう。

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 フランス行きの前の1523−24年、ちょうど「エラスムスの肖像」3点を手がけ
た頃、フローベンから依頼を受けて、エラスムスの釈義書『七つの主の祈り』
に挿絵を描いた。

 また木版画『死のアルファベット』24枚を制作。アルファベット1文字と死
(骸骨)がまとわりつく人物像を2.5センチ四方の小さな画面に表現し、聖書
から抜粋された文章が添えられた。

 フランスから帰国後の1524−26年、木版画『死の舞踏』49点の制作。

 これは、6.5×5センチの作品群で、いろいろな身分の老若男女が死(骸骨)
に連れ去られる場面を描いており、当時の人々の生活様式や習慣が見て取れる。
これに『死のアルファベット』と同じく聖句が添えられた。

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 『死の舞踏』の中から二例挙げてみよう。


  No.10の《皇妃》の図では、貴族の女性にかしずかれた皇妃が死(骸骨)に
 腕を支えられ、そのまま目の前の奈落に落ちようとしている。添えられた聖
 句には「神は驕り高ぶって歩む者の身分を低くされる」とある。

  No.38の《子供》の図では、台所から子供が死によって連れ去られようとし
 ており両親は嘆き叫ぶ。聖句には「人は女から生まれ一生は短く、次から次
 へと辛酸をなめ、花のように咲いてはしおれ、影のように過ぎ去る」とある。


 いくつかの絵に描き込まれた砂時計は残された時間を暗示している。


 おそらくそれぞれの絵柄のデザインと聖句の選択は、20代後半のホルバイン
自身によるものであろう。そのような文学的感性があったからこそ、エラスム
スら学識者の知遇を得られたに違いない。

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 3.第一次イギリス滞在

 1525年、ホルバインはバーゼル市長ヤーコプ・マイヤーから再び依頼を受け
て『ダルムシュタットの聖母』と今日呼ばれている聖母祭壇画を制作。しかし
バーゼルでの仕事は激減していた。

 1526年、ホルバインはトーマス・モアに宛てたエラスムスの紹介状を持って
イギリスへ単身旅立つ。「当地では諸芸術は凍てついております。彼はいくら
かの金貨を集めるためにイギリスに向かいます」とエラスムスは書いている。

 チェルシーの邸宅に画家を迎えたトーマス・モアはヘンリー8世の宮廷で地位
を確立していた。彼は贈られた『エラスムスの肖像』よってホルバインの技量
を知っていたけれども、その教養や人柄には驚嘆するものがあったようである。

 モアはエラスムスに書き送っている。「親愛なるエラスムスへ。あなたの画
家は驚くほどすばらしい画家です。けれど私は、彼が期待したほどイギリスが
実り豊かではないと感じるのではないかと危惧しています。

 私は彼にまったく不毛だと思われぬように全力を尽くしましょう。」

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 モアはエラスムスとの約束を守って、自身の肖像画とともに数点の肖像画を
ホルバインに発注した。

 画家の滞在はバーゼル市から認められた2年間に限られていたが、この2年間
に制作した克明な肖像画は、イギリス人たちを驚嘆させた。

 「サー・トーマス・モアの肖像」
 「アリス・ミドルトンの肖像」(モアの後妻)
 「サー・トーマス・モア家族図」(10名からなる集団肖像画)
 「リスとホシムクドリのいる婦人像」(モア家の養女マーガレット・キッグ
  ズを思わせる)
 「サー・ヘンリー・ギルフォードの肖像」(王室財宝館長)と「夫人像」
 「カンタベリー大司教ウィリアム・ウォーラムの肖像」
 「ニコラウス・クラッツアーの肖像」(天文学者・モア家の家庭教師)

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 こうして終わった第一次イギリス滞在は、多大な収入をもたらし、1528年バ
ーゼルに帰国すると、妻エルスベト名義で家を購入。3年後には隣家をも購入
したがこれは住居とは独立した工房として使うためと思われる。

 ホルバインは妻との間に長男フィリップ(1521年生まれ)と長女カタリーナ
(1526年生まれ)があり、次男ヤーコプと次女キュンゴルトも相次いで生まれ
たが、夫婦仲はうまくいっていなかった。

 彼自身は足がかりを得たロンドンで仕事を展開すれば経済的安定が得られる
と見込んでいただろうし、一方のエルスベトとすれば、肉親や知人がおらず言
葉も通じない異国での暮らしなど想像するのもおぞましいことだった。

 帰国の年に誰の注文でもなく描き上げた「ホルバイン家族図」は大変に評価
の高い作品である。妻エルスベトが2才のカタリーナをひざにのせ、7才のフ
ィリップの肩に手を置く母子像で、構図は聖母子像そのものである。

 たったひとりで夫の留守を切り盛りした2年間がエルスベトに与えた不幸と
心労が表情ににじみ出ており、夫婦間の不和を暗示させる。モデルの内面性を
全くといっていいほど描かないホルバインには稀有の作品となっている。

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 4.第2次イギリス滞在と画家の死

 1529年2月バーゼルでプロテスタントによる暴動が起こり、カトリック教会の
聖像が破壊された。4月になって市政に宗教改革が導入されると検閲も始まり、
穏健派であるヒューマニストや画家・彫刻家にとっては深刻な状況となった。

 エラスムスはカトリック派の都市フライブルクに逃れた。ホルバインは翌年
にかの地を訪れ、円形パネルにエラスムスの肖像を描いた。

 1531年にはバーゼルの改革派の発注で市庁舎大会議室の壁画を制作したが、
ロンドンでの豊饒(ほうじょう)多産には比べるべくもなかった。

 こうして1532年、ホルバインは妻の反対を押し切って、またも単身でイギリス
に渡って行った。しかし、ロンドンの状況も変わりつつあった。改革の機運が高
まると共に、4年前のパトロンたちの支援を受けることができなくなっていた。

 サー・トーマス・モアは大法官を辞任。収入が途絶えており、大司教ウォー
ラムやヘンリー・ギルフォードは死去していた。ギルフォードはアン・ブーリ
ンと敵対しており、官職の辞任直後の死であったため自殺と思われる。

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 外国人であるホルバインは、如何なる勢力にでも迎合して仕事を得るしかなか
った。手始めにロンドンのドイツ商館スティルヤードに出入りして、商人たちか
ら肖像画の依頼や商館ホールの壁画、イベントでの山車の装飾等を受注した。

 必死だった。肖像画では他の画家との技量の違いを際立たせる。衣装の描写
は糸の縫い目がわかるほど細密になり、その人物の職業・地位・豊かさを暗示
する背景や小道具はこれでもかといわんばかりに克明に描き込んだ。

 このような傾向が最も顕著な作品が代表作のひとつである1532年の「ハンザ
商人ゲオルグ・ギーゼの肖像」と1533年の「2人のフランス大使(ジャン・ド
・ダントヴィユとド・セルブの全身像)の肖像画」である。

 (ダントヴィユの肖像はホルバインの好敵手だったあのフランス人ジャン・
クルーエも素描を残しており、比べてみると興味深い。)

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 1532年はヘンリー8世と2番目の妻アン・ブーリンの結婚の年である。父トー
マス・ブーリンを当主とするブーリン家は改革派であり、同じく改革派のトー
マス・クロムウェルも台頭していた。

 ホルバインはドイツ商館の仕事がらみでブーリン家の知遇を得てアンや父ト
ーマスの肖像を描いている。クロムウェルも同様であった。1534年には新しい
駐英フランス大使「モルト伯シャルル・ド・ソリエの肖像」を描いた。

 1535年には直径5.3センチの細密画(ミニアチュール)「ペンバートン夫人
の肖像画」を描いた。さしものホルバインもこの技法だけには通じておらず、
宮廷画家のルーカス・ホーレンブーツに手ほどきを受けたことが伝わっている。

 したがって1533年から1534年頃のホルバインは、ヘンリー8世の宮廷画家、
あるいは宮廷に出入りする画家であったことは間違いない。

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 1535年、国王至上法を否認したロチェスター司教ジョン・フィッシャーと前
大法官サー・トーマス・モアの処刑が執行された。モアはホルバインの第一次
イギリス滞在時の恩人であり、フィッシャーも顧客のひとりだった。

 1536年にはヘンリー8世の3番目の妻ジェーン・シーモアとの婚礼が行われ、
その数日前には、男子の王位継承者を授かることのなかった2番目の妻アン・
ブーリンがロンドン塔で斬首された。

 同年ホルバインは宮廷画家としてヘンリー8世とジェーン・シーモアの一対
の肖像画と、モアの政敵だったリチャード・サウスウェルの肖像を制作した。

 ホルバインは恩人も、恩人を売った人も、区別することなく等しく顧客とし
て扱っている。エラスムスはこの年バーゼルで病死するのだが、かつてこの画
家の節操の無さを、楽観的過ぎると評したことがあった。

 しかし、巧みに見えるホルバインの処世も裏を返せば、生き残るための命が
けの綱渡りだったろうし、批判するのは酷と思える。

 顧客に臨んでは新教も旧教も問わない、またモデルの内面性には立ち入らな
いこと、そして彼自身の手になる書簡や(遺言書以外には)文書が一切存在し
ないことも、誤解を受けないための彼独自の処世術だったのではあるまいか。

 1530年を境に宗教画の制作はぷっつりとやめてしまっていた。

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 1538年「デンマークのクリスティーナの肖像」
    「フランスのルイーズ・ド・ギーズの肖像」
    「マルグリート・ド・ヴァンドームのの肖像」
    「アン・ド・ロレーヌの肖像」
 1539年「アンナ・フォン・クレーフェの肖像」
    「アマーリエ・フォン・クレーフェの肖像」

 ヘンリー8世の4番目の妻選びのためにベルギー・フランス・ドイツと飛び回
っていたホルバインは、大陸旅行の最中バーゼルに戻り、当時18才になってい
た長男のフィリップをパリの金細工師ヤーコプ・ダーフィトに入門させている。

 そして1540年のヘンリー8世とアンナ・フォン・クレーフェの結婚と離婚。

 離婚の原因は王によれば、ホルバインの描いたアンナ像と本人の印象があま
りにも隔たっていたことであり、この結婚の推進者だったトーマス・クロムウ
ェルは失脚し王命で即刻処刑されている。

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 この件に関して歴史家たちは、口を揃えて「クロムウェルの死と、国王を失
望させたアンナの肖像画によって、ホルバインは宮廷とのパイプを失った」と
記述している。

 しかし、

 1539年「エドワード皇太子2才の肖像」(ヘンリーと3番目の妻の子)
 1540年「トーマス・ハワードの肖像」(実力者ノーフォーク公爵)
 1541年「キャサリン・ハワードの肖像」(ヘンリー8世の5番目の妻)
 1543年「エドワード皇太子6才の肖像」

 と相次いで受注しているところをみるとそうともいえないようだ。

 暴君であったことは否定できないヘンリー8世ではあるけれども、こと芸術
に関しては確かな審美眼を持っており、ホルバインの才能に絶対的信頼を置い
ていた唯一の人物と思われる。

 その結果、チューダー朝2代目国王ヘンリー8世の宮廷模様と人物群像の記
録として、ホルバインの肖像画が最高の拠りどころとなったといってよい。

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 1543年の「ロレーヌ公爵アントワーヌの肖像」は装飾をそぎ落とした究極の
肖像画である。「サー・ウィリアム・バッツ夫妻の肖像」と聖職者・医師「ジ
ョン・チェンバース博士の肖像」「45才の自画像」も描かれた。

 同年10月にハンス・ホルバインは遺言書を作成した。若干の借金と、ロンド
ンでもうけた2人の庶子の世話について記されている。

 自画像と遺言書。画家は死を予感したのだろうか。イギリスを去ってバーゼ
ルに戻る腹積もりだったのだろうか。

 彼は翌月ヨーロッパを席巻した伝染病ペストに感染し、ロンドンで客死した。
突如として油の乗り切った芸術家は『死の舞踏』を踊る。砂時計の砂は一粒も
残っていなかった。

 イギリスに来てからの10年間に描いた肖像画は150枚を数えていた。

 画家の死から6年後、バーゼルに残された妻エルスベトが世を去った。

 このとき遺産目録が作成されたが、夫の作品は生活のために売却しており、
一点の美術作品も所持していなかったことが伝わっている。


◆【5】肖像画の内容について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 1.『ユートピア』と『モア像』

 像主であるサー・トーマス・モアの著作『ユートピア』には、大冒険家アメ
リゴ・ヴェスプッチの同行者である、ラファエル・ヒュトロダエウスというギ
リシア人から聞いた未知の国『ユートピア』の話が語られている。

 日本には明治以来、『良政府談』『理想的国家』といったタイトルで紹介さ
れてきた。『ユートピア』という言葉は、ギリシア語の「ウ」(どこにもない)
と「トポス」(場所)から作られたモアの造語である。

 その中に描かれていたのは、農業中心の共産主義の国であり、通貨を持たず
相互奉仕によって成り立っている一方で、プライバシーという観念が存在しな
い社会であった。

 軍事についてはスイスをモデルとしたような自衛のための傭兵軍団を擁する
強国であるが、戦争を肯定せず、外交に最も重きを置いている。

 モアは実際に海のかなたに存在する国のように巧妙に語っているが、アメリ
カインディオ、インディアンの国というより、ヨーロッパの歴史を元に変形さ
せたり裏返しにしたりして創造した、成熟した社会であることが分かる。

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 『ユートピア』の中の記述で、筆者が声をたてて笑ってしまった面白い部分
があったので紹介したい。

 ユートピア人は貨幣を用いないが、貨幣の原料である金・銀を、傭兵を雇う
とか非常時のために貯めている。それ以外のときには、別に金・銀の本来の価
値は鉄と比べると、非常に用途が限られるため誰も尊重しない。

 そうして、通常は金や銀で、家庭で用いられる便器など最も汚い容器を作っ
ている。さらにまた、奴隷をつないでおくための鎖や太い足かせもこれらの金
属を用いる。

 おまけに、なにかの犯罪で名誉を失ったひとの耳には金の環を下げさせ、指
には金の指輪をはめさせ、首には金の鎖をまきつけさせ、頭には金の帯を縛り
つける。彼らは金銀を恥ずべきものとして扱うのである。

 ダイヤモンドやルビーなどの宝石は幼児の飾りものであって大人たちは見向
きもしない。

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 このようなユートピア国に、遠いアネモールという国から外交使節が来た。

 アネモール人はユートピアでは、一様に質素な麻の衣服をまとっていると聞
いていたため、高慢心から神々のような華麗な衣服でユートピア人を驚かせて
やろうと考えた。

 そこで3人の使節は絹の衣服を着けた百人の従者を引き連れ、自分たちは金
糸の衣服をまとい、金の首飾りと耳環をつけ、金の指輪をして、帽子には真珠
や宝石で輝く飾り金をさしてやって来た。そうして鼻高々に練り歩いた。

 けれども、通りにあふれ出たユートピア人の目には、こうしたきらびやかな
装飾はすべて恥ずべきものと映ってしまう。

 そのためユートピア人はいちばん身分の低いアネモール人を大使とまちがえ
てうやうやしく挨拶し、金の鎖をつけていた肝心の使節を奴隷と考え、見過ご
してしまった。

 としごろの子供たちは母親に向かって叫んだ。「見てよ、なんて大きなまぬ
けなの、子供みたいに宝石なんかつけちゃって」母親は一様に真面目な顔をし
て言った。「静かにして、あれは大使さまおかかえの道化師にきまっているわ」

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 閑話休題。さて本題の「サー・トーマス・モアの肖像」を見てみよう。

 モアは巖山のような堅固な構図にいかめしい顔つきで収まっている。

 モアの目は何を見つめているだろうか。

 いや、肖像画のモデルを務めているモアは何かを凝視している訳ではなさそ
うである。彼の網膜には何も映っておらず、彼の目が見ているのは、脳裏に浮
かんだ映像であるかもしれない。

 目の周囲に点じられた赤色は、モアの慢性的睡眠不足を示している。睡眠時
間を削って創作活動に充てているためだ。彼の厳しい表情は、公務・国王の側
近としての重責を連想させる。

 モアの至福は間違いなく、早朝の創作活動や静かな瞑想にあったはずで、彼
はそのジレンマを見つめている。多事多難な前途を見つめている。

 右手にはさんだ手稿は何であろうか。原稿の覚書であろうか。この衣装にふ
さわしい小道具と考えれば法案に類するものか。

 モアの一生を見てきた私たちには、自ら翻訳して指針としている『ピコ伝』
の一節が書かれたメモ書きと、こう想像することは許されるであろう。

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 肖像画を見たとき、最も目を惹くのはチューダーローズの金飾りを胸元につ
るした金の首輪である。これはヘンリー8世のまぎれもない廷臣であることを
示している。

 法学者の帽子を被り、ローブと呼ばれる見事な毛皮の襟をつけた黒いガウン
をまとい、ベルベットの赤い袖を覗かせている。左手の人差し指には宝石を埋
め込んだ金の指輪。

 『ユートピア』を書いてから12年後のモアの姿であるが、これはまさに『ユ
ートピア国』の、奴隷の出で立ちそのものではないか。

 当時の彼はまだヘンリー8世お気に入りの側近であり、知性とユーモアにあふ
れたモアを敬愛するヘンリーは、モアのチェルシーの邸をたびたび訪れていた。

 そのため、ヘンリーもこの絵を見ていただろうし、そうであればチューダー
ローズの紋章を首に掛けないわけにはいかない。ある意味、廷臣とは国王の意
思によって選ばれた富裕な奴隷であるともいえる。

 自らの姿を後世に伝えるための肖像画とはいえ、『ユートピア』のことを思
い出すたび、モアは、ほくそ笑んでいたかもしれない。

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 2.絵画と肖像画の問題

 「サー・トーマス・モアの肖像」は、ハンス・ホルバインらしい適確なデッ
サンと色彩、色調を示している。迫真の写実力といってよい。

 しかし、一方で絵画として鑑賞するときに、決して面白いといえるようなも
のではない。

 あの絵画の規則、色彩や形態による目の誘導は巧みに組み込まれており、見
るものの視点が滞ることはないのだけれど。

 肖像画と絵は別ものといってはいいすぎだが、肖像画そのものを追求すると
絵から遠ざかっていくという事実が存在するのである。

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 いい絵、絵画らしさ、というものは言葉で言い尽くせない何かを持っている。
かもし出される雰囲気のようなものを湛えている。

 これに対して肖像画は、まず第一に似ていなければならない。極言すれば、
似ていればよい。それは絵画には違いないのだけれども、絵画らしさは特に求
められない。

 逆に絵画らしさは、似ていることを要求しない。風景でも人物でも静物でも
抽象でも、似ていてもよいが、似ていなくて悪い絵ということは決してない。

 一言で言えばポエジー(詩情)の有無にかかっている。

 形はでたらめだが、色はかけ離れているが、何かいい絵だなというとき、そ
こには詩情がにじみ出ている。絵の中に詩がある。

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 画面の中に、描き尽くされていない、あるいは描くのを止めている、あるい
は描いていない、空間があるとき、余白が存在するとき、よくわからない何か
がそこには漂っている。

 それは暗示となって見る者を強烈に惹きつける。

 画面を描き尽くすほど、想像させる何か空気感のようなものが減少する。

 絵の中に、情報が少ないほど、見る者の想像の余地が広がる。

 そうして余白、暗示、想像できる余地といったものがポエジーに直結する。

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 このようなポエジーの問題をクリアした肖像画は存在するのか、といえば無
尽蔵に存在している。

 肖像画ではなく人物画に近づければよい。肖像画から離れればよい。情報量
を抑えればよい。19世紀の印象派、エコール・ド・パリあたりからこの傾向は
顕著になってきている。

 ただし、肖像画と人物画の違いは、注文主があるかないかに関わっている。
肖像画である限りは、依頼者の要望に応えなければならない。

 依頼者がホルバイン並の克明な肖像画を希望しているのに、ゴッホ風の肖像
画を描いたとしたら、報酬は得られない。ヘンリー8世に対して、モジリアーニ
風の花嫁の肖像画を差し出したとしたら、打ち首はまぬがれないことになる。

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 そういう意味では、画像ページの「サー・トーマス・モアの肖像」の下に掲
載した「エラスムスの肖像」は示唆的といえるだろう。

 これは横顔(プロフィール)の肖像画であり、容貌ひとつとっても情報量が
随分抑えられている。

 衣装のローブは黒一色に見えるし、背景は細密に描かれているのだが明るさ
(明度差)が抑制されているために、モア像のようにうるさく主張することが
ない。

 エラスムスの視線の先にある原稿に何が書かれようとしているのか、見る者の
興味はそちらへも向かうことができるし、この図像は、キリスト教芸術の伝統
的な『ヒエロニムス像』を下敷きにしているから、そこへも連想が働いていく。

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 「エラスムスの肖像」はホルバインにとり「サー・トーマス・モアの肖像」
を先立つこと4年前の作品であるから、後者の発展形ではありえない。

 エラスムス自身もこの肖像画を大変気に入っており、同じプロフィールでい
くつも制作されて、あちこちの友人への贈り物に用いている。

 しかしまた、このルーブル美術館所蔵の「エラスムスの肖像」とほぼ同じ構
図で描かれた(同一の写しによる)バーゼル美術館所蔵の「エラスムスの肖像」
はホルバインがフランス宮廷に持ち込んで散々な目に遭っている。

 であるからこそ、「サー・トーマス・モアの肖像」や「アンナ・フォン・ク
レーフェの肖像」がホルバインの発展形なのである。

 ここにも顧客の好みが色濃く反映されるわけで、絵画と肖像画の問題には実
際、興味深いものがある。

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〈参考文献〉

「ユートピアの権力と死」澤田昭夫監修
日本トマス・モア協会編(荒竹出版)1987年

「世界の名著17 エラスムス トマス・モア」
渡辺一夫責任編集(中央公論社)1969年

「イギリス・ルネサンスの人々」橋口稔著(研究社出版)1988年

「トマス・モア」A・ケニー著 渡辺淑子訳
(教文館)1995年

「トマス・モア」ジョン・ガイ著 門間都喜郎訳
(晃洋書房)2007年

「エラスムス 人と思想62」Century Books
斉藤美州著(清水書院)1981年

「平和の訴え」岩波文庫
エラスムス著 箕輪三郎訳(岩波書店)1974年

「ホルバインの生涯」海津忠雄著(多賀出版)1989年

「肖像画のイコノロジー」海津忠雄著(多賀出版)1987年

「アートライブラリー ホルバイン」ヘレン・ランドン著 保井亜弓訳
(西村書店)1997年

「TOUT L'OEUVRE PAINT DE HOLBEIN LE JEUNE, Les Classiques de l'Art 」
PIERRE VAISSE, HANS WERNER GROHN著(Flammarion)1972年

「世界大百科事典」(平凡社)

"The New Encyclopedia Britanica"


◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 ルネサンス期はあらゆる芸術の宝庫です。紹介したい肖像画も山のように存
在しますが、このあたりで気分を変えて、次号では200年ほど時代を下って近
代の肖像画を紹介したいと思います。

 画家の名はゴヤ。彼は実に長命であり、激動の時代を生きて、あらゆる種類
の絵画を描き尽くしたスペイン絵画の巨匠です。

 肖像画だけの技術をいうならホルバインには及びませんが、絵画の内容を問
うなら、彼に並ぶことのできる画家は多くないのです。

 もちろん彼も宮廷画家として肖像画を多く手がけましたが、王家の肖像を描
くときでも、辛らつな個性を発揮しました。

 次回紹介するのは、チンチョン伯爵夫人の肖像です。彼女の父親はゴヤの最
初のパトロンの一人でしたから、彼女を幼い頃から見知っており、共感を込め
て描いています。

 ゴヤ作「チンチョン伯爵夫人の肖像」
 何卒ご購読のほどよろしくお願いたします。


◆【7】編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 随分と遅くなりました。
 毎度のことだと、どうぞ気長にお待ちいただければ幸いに存じます。


 さて、古代イタリアに、聖エルモと呼ばれた司教がおりました。

 英語オランダ語名は、聖エラスムス。303年頃ローマ皇帝に捕らえられ、殉教
したのですが、そのとき拷問に使われたのがウインチの一種、キャプスタン
(巻き上げ機)。これを用いて、裂いた腹から内臓を引き出したといいます。

 船乗りが碇を引き上げるのにキャプスタンを用いることから、死後、聖エル
モは船乗りの守護聖人と呼ばれるようになりました。

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 それから1200年ほどあとのオランダの港町ロッテルダムの広場に、エラスム
スの木像が立てられました。

 これはトーマス・モアの友人、人文主義者のデシデリウス・エラスムスの肖
像彫刻で、彼の死後9年たった1545年のことです。

 しかし、船乗りの多い土地柄のため、ロッテルダムのヒューマニスト・エラ
スムスは、いつしか守護聖人・聖エラスムスと混同されたようです。

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 さらに50年後の1598年のことです。オランダのロッテルダム港から、東洋に
向けて5艘の船団が出航しました。その内1艘がリーフデ号(Liefde;仁愛)
という船で、160トン・110人乗りの木造帆船でした。(旧名をエラスムス号)

 リーフデ号の船尾には、船乗りの守護聖人・聖エラスムスの木像が飾られて
いたのですが、そのモデルとなったのは、広場にある、あのデシデリウス・エ
ラスムスの木像でした。

 5艘の船団は逆風のため、南アの喜望峰に達することができず、インド航路を
諦め、西進することになりましたが、大西洋を過ぎ、南米の先端を回って、太
平洋を横断中にリーフデ号はついに遭難。

 出発から2年後の1600年4月19日、日本の豊後海岸佐志生に漂着するのです。
生存者はわずかに24名。それは天下分け目の決戦前夜の日本。一報を聞いた徳
川家康は、船を堺に、そして江戸へと廻航させました。

 彼らの内で、オランダ人航海士ヤン・ヨーステン(日本名;耶楊子)とイギ
リス人航海長ウイリアム・アダムス(日本名;三浦按針)の二人は、日本に残
り、家康に仕えることになります。

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 そしてリーフデ号は解体されるのですが、船尾のエラスムス像だけが残され
ました。ウイリアム・アダムスに砲術の指南を受けていた牧野成里(しげさと
;1556-1614)という家康の旗本が、これをもらい受けたのです。

 牧野成里は、滝川一益、織田信雄、長谷川秀一、豊臣秀次、石田三成、池田
輝政、徳川家康に仕えたという流浪の苦労人です。はるばると日本にたどり着
いたエラスムス像に深く感じるものがあったのでしょう。

 成里はこれを自宅裏のお堂に祀っておりましたが、死後は菩提寺の龍江院
(栃木県佐野市)に納められ、貨狄尊者像(かてきそんじゃぞう)と呼ばれて
いました。

 貨狄とは紀元前2500年頃の中国・黄帝の臣で、船の発明者です。

 ウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンはおそらく、偉人デシデリウス・
エラスムスのことを知っていたはずですが、彼がキリスト教関係者であること
は敢えて言わずに、単に船の神様ぐらいに説明したものと思われます。

 この木像は重要文化財として、東京国立博物館に収蔵されています。
今では、「エラスムス立像」と表示されているようです。


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