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【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年
信長、信玄、家康、モーツァルト…古今東西の肖像画辞典!
   
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 【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年          No.0021

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                          2012年09月18日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ
……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――――――――□

【1】 ブロンズィーノ作「エレオノーラ・ディ・トレドの肖像」
    (プラハ国立美術館 シュテルンベルク宮殿)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主について
【4】 マニエリスムと作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告
【7】 編集後記

□――――――――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】「フィレンツェ公妃、エレオノーラ・ディ・トレドの肖像」━━━━◆

 今回は、アーニョロ・ブロンズィーノ作「エレオノーラ・ディ・トレドの
肖像」を取り上げます。

 彼はフィレンツェの画家で、その洗練された肖像画は、マニエリスト様式の
好例であり、16世紀半ばのフィレンツェ公メディチ家の宮廷の理想を最高度に
具現化しています。

 新しい権力者コジモ1世はブロンズィーノに、愛妻エレオノーラの肖像画を
たびたび描かせました。その優雅であると同時に、冷たく厳格な表現は、ボッ
ティチェッリの優雅さとは対極に位置するものです。


★★★ブロンズィーノ作「エレオノーラ・ディ・トレドの肖像」はこちら
⇒⇒⇒ https://www.shouzou.com/mag/p21.html


◆【2】肖像データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名: 「フィレンツェ公妃 エレオノーラ・ディ・トレドの肖像」
作者名: アーニョロ・ブロンズィーノ
材 質: 油彩(板)
寸 法: 59×46cm
制作年: 1543年
所在地: プラハ国立美術館 シュテルンベルク宮殿(チェコ)
注文者: フィレンツェ公爵コジモ1世・デ・メディチ

意 味: フィレンツェの若き君主コジモ1世・デ・メディチと、スペイン貴族
でナポリ総督令嬢エレオノーラ・ディ・トレドの結婚は、神聖ローマ帝国皇帝
カール5世の仲立ちによるものである。

 それは三国の関係を良好なものとすることにつながった。

 またコジモ1世自身も彼女を大いに気に入っていた。そのため、その美しい
容姿を画布に永遠に留め、新妻の高貴な血筋を喧伝するために、当代最も腕の
立つ画家に肖像画を描かせた。

 これは画家ブロンズィーノが数点制作したエレオノーラの肖像画の中で
最初の作品である。


 肖像画・油絵の注文制作 肖像ドットコム https://www.shouzou.com/


◆【3】像主エレオノーラ・ディ・トレド(1522-62)について ━━━━◆

 1.エレオノーラの生い立ち

 エレオノーラ・アルヴァレス・デ・トレド・イ・オソーリオ(Eleonora Al
-varez de Toledo y Osorio)は、スペインの有力貴族の娘として現在のカス
ティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県のアルバ・デ・トルメスに生まれた。

 サラマンカ県は、ポルトガルと国境を接するスペイン西部に位置しており、
アルバ・デ・トルメスは、県都サラマンカからバスで30分、人口5000人ほどの
村である。

 エレオノーラの父ドン・ペドロ・アルヴァレス・デ・トレド(1484-1553)
は、サラマンカに生まれ、同州ヴィリャフランカ・デル・ビエルソ
(Villafranca del Bieruzo)を治めるヴィリャフランカ侯爵だった。

 1532年から20年間は、スペイン領だったイタリア・ナポリの副王(総督)を
務めている。

 当時のスペイン国王カルロス1世(1500-1558)は、神聖ローマ皇帝カール5
世を兼ねており、その20以上持つ肩書きの中には、ナポリ国王カルロス4世も
含まれるから、当然、彼自身はナポリに常駐しない。

 したがって実質上、ナポリの統治は副王であるエレオノーラの父が行い、ナ
ポリをスペインの要塞とするべく絶大な権力をふるっていた。

 エレオノーラの母はマリア・オソーリオ・イ・ピメンテル(1498-1539)と
いい、マドリードに生まれ夫との間に7人の子供(3男4女)をもうけている。

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 エレオノーラが母や兄弟たちと共にナポリに移り住んだのは、父の単身赴任
から2年を経た1534年のことだった。

 12才から16才までの多感な時期を、青い海と陽光の国ナポリで過ごした少女
は健康で活力に満ち、美しく聡明である一方、その極めて裕福な家庭ゆえに、
わがままで気まぐれ、傲慢かつ贅沢な娘に育った。

 1539年、ナポリ副王ドン・ペドロ一家に、フィレンツェ公との縁談話が持ち
上がる。国王カルロス1世の命によるもので、引き続き北部イタリアの君主と
同盟することで、フランスに対抗するという政略結婚である。

 ドン・ペドロは当初、エレオノーラの姉・イザベラをフィレンツェに嫁がせ
る腹積もりでいた。

 しかし、外交官ニッコリーニから、イザベラや妹たちについて報告を受けた
若きフィレンツェ公・コジモ1世・デ・メディチは、次女エレオノーラを指名
した。

 イザベラは評判の醜女であり愚かだというのである。

 交渉は長引き難航したが、コジモ1世が2万ドゥカート(金70kgに当たる
金貨)という高額の結納金を提示したため、ドン・ペドロは考えを変え、エレ
オノーラを送り出すこととなった。

 ちなみに金70kgとは本日の地金販売価格で約3億2千万円に当たる。

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 2.コジモ1世・デ・メディチ(1519-1574)とメディチ家

 メディチ家は、14世紀の銀行家ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1428)
の登場により、フィレンツェで注目されるようになる。彼は有数の多額納税者
となり、銀行組合の代表の一人として共和国政府の要職を歴任した。

 その長男の老コジモ、

コジモ・(イル・ヴェッキオ:老獪な)・デ・メディチ(1389-1464)は、
『祖国の父』と呼ばれ、その血筋は兄脈と呼ばれる本家筋の祖となった。
 ※( )書きはいく度も登場する同じ名前を区別するための通り名である。

 老コジモは、フィレンツェの実権を掌握。家業の方でも、各国に銀行の支店
網を張り、商社的なビジネスも行って隆盛を極めた。

 次男の老ロレンツォ、

 ロレンツォ・(イル・ヴェッキオ)・デ・メディチ(1395-1440)は弟脈と
呼ばれる分家筋の祖となるが、彼の時代は、兄を助けて銀行業務を行っていた
ようである。

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 老コジモから、

 子のピエロ・(イル・ゴットーソ:痛風病みの)デ・メディチ(1416-69)
孫のロレンツォ・(イル・マニフィコ:豪華なる)・デ・メディチ(1449-92)

にかけて、メディチ家は黄金時代を迎えた。英才教育を受けた“豪華なる”ロ
レンツォの嫁はローマの名門から迎え入れ、両替商から成り上がった一門は貴
族化していく。彼らはルネサンス芸術のパトロンとしても名を馳せた。

 ところが、マニフィコ・ロレンツォの長男、

 ピエロ・(イル・ファトゥオ:愚かな)デ・メディチ(1472-1503)は、対
外政策を誤り、国を売ったとして、一転メディチ家はフィレンツェから追放の
憂き目に遭ってしまう。1494年のことである。


 その後、マニフィコ・ロレンツォの次男、

 ジョバンニ・デ・メディチ枢機卿(1476-1521)がローマ法王レオ10世とし
て即位。フィレンツェ追放から18年目の1512年、彼の後押しでメディチ家は
フィレンツェに復帰した。


 レオ10世の死後、マニフィコ・ロレンツォの弟・ジュリアーノの庶子の、

 ジュリオ・デ・メディチ枢機卿(1478-1534)もまた、ローマ法王クレメンス
7世として即位した。1531年彼は、黒人の召使いとの間に生まれた庶子・アレ
ッサンドロ(当時20才)を、フィレンツェに送り込む。

 アレッサンドロ・デ・メディチ(1511-37)は、神聖ローマ皇帝カール5世か
ら初代フィレンツェ公の称号を受け、ここにメディチ家出身者が名実ともに君
主となった。

 けれどもわずか5年後、“淫乱な暴君”と化した公爵アレッサンドロは、情
事のお膳立てを頼んであった、分家の悪友・ロレンツィーノ・デ・メディチ
(1515-47)に暗殺されてしまったために、老コジモの直系はここに途絶えた。

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 一方の分家の一族は、ながく本家筋と対抗していたようである。


 老ロレンツォの孫、

 ジョヴァンニ・(イル・ポポラーノ:庶民派の)デ・メディチ(1462-98)
は“愚かな”ピエロによって1494年にメディチ家が追放されたとき、名を
イル・ポポラーノと変えて兄脈とは一線を画し、フィレンツェに留まった。

 同じくフィレンツェに残った弟の富豪、

 ロレンツォ・(イル・ポポラーノ)デ・メディチ(1463-1503)はボッティ
チェリのパトロンで「ヴィーナスの誕生」の注文者である。アレッサンドロの
暗殺者・ロレンツィーノは彼の孫にあたる。


 “庶民派の”ジョヴァンニの子、

 ロドヴィコ・デ・メディチ(1498-1526)は、父を生後5ヶ月で亡くし、母・
カテリーナ・スフォルツァ(1463-1509)とも生き別れとなって、喧嘩早い乱
暴者に成長する。彼は、父と同じ名のジョヴァンニに改名。軍人となり、

 ジョヴァンニ・(デッレ・バンデ・ネーレ:黒旗隊の)デ・メディチとし
て、ローマ法王レオ10世に仕えた。

 “黒隊長”ジョヴァンニは、侵攻してきた神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊
に敢然と立ち向かって落命したが、その名声はイタリア全土に鳴り響いた。

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 さて、1537年、“粗暴な”アレッサンドロ公が26才で暗殺されたとき、フィ
レンツェの有力者たちから擁立されたのが、“黒隊長”ジョヴァンニの息子で
“祖国の父”と同じ名の17才の青年コジモ(Cosimo de Medici)だった。

 亡き父ジョヴァンニはイタリア中に知られた勇猛な戦士、母マリア・サルヴ
ィアーティ(1499-1543)は、マニフィコ・ロレンツォの孫であり、血統は申
し分ない。

 長身の若きコジモ・デ・メディチは、有力者たちの予想に反して、有能で判
断力に長け、強い意思を持ち、冷酷でさえあった。

 同年7月に起きた反乱を、カール5世の支援を得て敗走させると、首謀者たち
を残酷な方法で処罰する。戦いのあと皇帝から、第2代フィレンツェ公の称号
を受け、コジモ1世となった彼はすでにフィレンツェの絶対君主であった。

 そして2年後の1539年、コジモ1世・デ・メディチは、神聖ローマ皇帝カール
5世の斡旋により、ナポリ総督の娘を妻に迎えた。

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 3.フィレンツェ公爵夫妻

 コジモ1世は、莫大な結納金と引き換えに得たエレオノーラ・ディ・トレド
との結婚により、神聖ローマ帝国及びスペイン王国との強固な関係を築き、ま
たカスティーリャ王家の貴族の血をメディチ家に取り込んだ。

 前フィレンツェ公の末路を目の当たりにし、血筋が絶えることを怖れていた
コジモ1世にとって、エレオノーラとの夫婦仲は理想的だった。愛情深く従順
な新妻は、毎年のようにせっせと子を産んだ。その子供たちは11名を数える。

 一方で孤独な専制君主であるコジモ1世は、むら気で、家臣を一切信用しな
かったが、聡明なエレオノーラだけは別で、彼女も農業や商業にも興味を持
ち、夫の不在時には摂政として振舞うだけの能力を持っていた。

 また、スペイン育ちの敬虔なカトリック教徒でもあるエレオノーラは、イエ
ズス会をフィレンツェに根付かせるべく、修道院や教会を設立した。さらに夫
妻共々、芸術・文芸の良き理解者でありパトロンであった。

 彼女について、宮廷画家であったジョルジョ・ヴァザーリ(1511-74)は
その著書『画家・彫刻家・建築家列伝』の中で、

 「かの有名なドンナ・レオノーラ・ディ・トレド」「この夫人は並みいる才
媛の中でも、際立って立派な方で、高尚な人柄といい、一点の非の打ちどころ
のない、賞賛おくあたわざる女性であった」と評している。

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 他方、スペイン宮廷の礼儀作法を押し通すエレオノーラは、子供たちや家臣
に対しては厳格かつ尊大で、コジモ1世の圧政とも相まって、人臣の間で噂に
のぼる公爵夫妻の人気は低かった。

 また贅沢三昧に育ったため、宝石や豪華な衣装に執着し、ドレスを仕立てる
係として常時10人の縫い子を抱えていたほどである。

 そして退屈なことを厭う、生来、活動的な公妃は、宮殿から宮殿への小旅行
と乗馬を非常に好んだ。日常的な乗馬が公妃の骨に異常をきたすほどであった
ことが、20世紀に行われたメディチ家歴代君主の遺骸調査で判明している。

 芝居やギャンブル好きも有名で、嫌がり、懇願するトルコの道化師が、無理
やり裸にされて、巨大な男性器の張りぼてが暴露されるという寸劇に、大笑い
したという公妃の逸話が伝わっている。

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 公妃夫妻の11人の子たち (左端が出産時のエレオノーラの年齢)

18才 長女マリア(1540-57)享年17 マラリア死
19才 長男フランチェスコ1世(1541-87)享年46 第2代大公 変死
20才 次女イザベラ(1542-76)享年34 ブラッチャーノ公パオロ・ジョルダ
   ーノ1世・オルシーニ公妃 変死
21才 次男ジョヴァンニ(1543-62)享年19 枢機卿 マラリア死
23才 三女ルクレツィア(1545-61)享年16 フェラーラ公アルフォンソ2世・
   デステ妃 結核死
24才 三男ピエロ(1546-47)享年1 夭逝
25才 四男ガルシア(1547-62)享年15 マラリア死
26才 五男アントニオ(1548-48)享年0 夭逝
27才 六男フェルディナンド(1549-1609)享年60 兄フランチェスコ1世大公
   夫妻を殺害後、第3代大公として即位
31才 四女アンナ(1553-53)享年0 夭逝
32才 七男ドン・ピエトロ(1554-1604)享年50 妻エレオノーラ(母エレオ
   ノーラ・ディ・トレドの姪)を殺害

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 公妃エレオノーラは子沢山だったとはいえ、生前に7人の子を看取っており
多くの悲しみと病にさいなまれた後半生は、けっして幸福とはいえない、むし
ろ過酷なものであった。

 公爵夫妻の死後まで生き延びた4人も、

 次女イザベラは、浮気な夫に残酷な方法で絞め殺され、
六男フェルディナンドは、自堕落な長男フランチェスコ1世を殺したのち即位。
ならず者の七男ドン・ピエトロは妻を絞殺。

 どうも公爵家の躾には問題があったようである。

 エレオノーラ自身、いく度にも渡る妊娠と出産のために、カルシウム欠乏症
に陥り、重度の虫歯と骨の異常を患っていた。晩年にはフィレンツェの冷気の
ために結核にも冒されていた。

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 1562年10月、コジモ1世は、医師の勧めもあり、愛する妻の転地療養と農業
視察を兼ねて、気候の温暖な海沿いのマレンマへの避寒旅行に出発した。3人
の息子も伴っていた。

 ここで妻子は、マラリア(蚊を媒介とする原虫感染症)に冒されてしまう。

 イタリア語で「沼地、湿地」を意味するマレンマは、マラリアの多発地帯で
もあった。

 11月20日に次男ジョヴァンニ枢機卿、12月12日には四男ガルシアが死去。悲
しみに浸る間もなく、エレオノーラも17日にピサで亡くなった。享年40。フィ
レンツェに嫁いで23年目の死。

 同行した息子で、唯一生還したのが六男のフェルディナンドだった。

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 最愛の妻と期待の息子を一度に亡くしたコジモ1世の悲しみは深く、2年後、
45才にして公務を離れ、長男のフランチェスコを摂政に立てた。

 大公は寂しさを紛らすため、エレオノーラ・デリ・アルビッツィという若い
愛人に夢中になる。そして彼女との再婚を望んだが、長男フランチェスコの猛
反対に遭い、密告した執事に逆上しこれを殺害。再婚話は立ち消えとなった。

 その後別の若い愛人カミッラ・マルテッリと再婚するも反りが合わず、また
半身不随の身となる。

 晩年は、ただ一人残っていた次女イザベラと一緒に過ごしていたが、卒中の
発作を起こし、1574年4月21日に他界した。享年55。


 コジモ1世の政治は圧政的ではあったが、中央主権制が整えられ、政治は安
定し、財政は健全だった。強力な軍隊を組織し、巧みな外交と戦略によってト
スカーナ各地に駐屯していたスペイン軍を撤退させた。

 1555年にはシエナを併合し、1569年には、ローマ法王ピウス5世と取引をし
て皇帝カール5世を説得させると、イタリアでは史上例のない「トスカーナ
大公」の称号を得た。

 彼はその37年の治世において、共和制・フィレンツェを、君主国家・トスカ
ーナ大公国に変貌させるという大事業を成し遂げている。

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 4.その後のメディチ家

 コジモ1世の長男、第2代トスカーナ大公・フランチェスコ1世は、博学だっ
たが政治的には全く無能で、金のかかる錬金術に耽溺して工房に入り浸った。

 また、父の選んだ、正妻ジョヴァンナ・ダウストリア(1547-78)をほった
らかしにして、愛人ビアンカ・カペッロ(1543-87)にのめり込んだ。

 1578年にジョヴァンナが出産に失敗して亡くなると、2ヵ月後にはピアンカ
と再婚して、世人の顰蹙(ひんしゅく)を買う。この結婚は、実弟のフェルデ
ィナンド枢機卿を激怒させた。

 ジョヴァンナ・ダウストリアは、先々代の神聖ローマ皇帝フェルディナンド
1世(1503-64)の娘で、先代のマクシミリアン2世(1527-76)にとっては妹で
ある。父・コジモ1世の遺志を無にするばかりか、外交上の信用も失墜する。

 1587年、フェルデナンド枢機卿は、大公夫妻を秘密裏に毒殺し、代わりに第
3代トスカーナ大公・フェルディナンド1世として即位した。

(公には、大公夫妻はマラリアで死んだことになっているけれども、例のメデ
ィチ家歴代君主の遺骸調査の際、保存されていたフランチェスコ1世とピアン
カの内臓から大量の砒素が検出されたことで、毒殺説が裏付けられている。)

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 冷静で現実的なフェルディナンド1世は、政治家としては非常に有能で、同
時に温情にあふれた統治を行ったため、名君として民衆から親しまれた。

 1589年には、フランス国王アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシス
(1519−1557)の孫で、ロレーヌ公シャルル3世(1543-1608)の息女、クリス
ティーヌ・ド・ロレーヌ(1565-1637)と結婚。

 その11年後には、姪で、フランチェスコ1世と正妻ジョヴァンナ・ダウスト
リアの娘であるマリア・デ・メディチ(1575-1642)に多額の持参金を付けて
フランス王アンリ4世(1553-1610)に嫁がせた。

 (マリアは、ルーブル美術館の一室を占める巨匠ルーベンス(1577-1640)
の大連作絵画「マリー・ド・メディシスの生涯」のヒロインである。)

 さらに1608年には長男コジモ2世の嫁として、神聖ローマ皇帝フェルディナ
ント2世(1578-1637年)の妹マリア・マッダレーナ・ダウストリアを迎えた。

 フェルディナンド1世は、父の代から続く外交方針を、フランス・スペイン
・オーストリアとの等距離外交に転換させるという絶妙のバランス感覚を持っ
ており、トスカーナ大公国も最後の輝きを放っていた。

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 これ以後、大公国は衰退し始める。彼の直系が3代続いたあと、4代目のジャ
ンガストーネ(1671-1737)には子がなかったため、ついにメディチ家とイタ
リア人によるトスカーナ支配は終息した。

 1737年にトスカーナ大公を継承したのはロートリンゲン(ロレーヌ)公・フ
ランツ・シュテファン(1708-65)である。

 1745年に神聖ローマ皇帝・フランツ1世となる新大公の、妻はマリア・テレ
ジア(1717-80)であり、のちにマリー・アントワネット(1755-93)という娘
を産んでいる。

 さて、メディチ家の遺産は、ジャンガストーネの死後、姉であるアンナ・マ
リア・ルドヴィカ・デ・メディチ(1667-1743)が継いだが、彼女の死後は、
新トスカーナ大公のものとなり、国外に持ち出されることも予想された。

 このとき彼女がトスカーナ政府と結んだ「メディチ家の遺産をトスカーナ大
公国に寄贈する代わりに国外には持ち出してはならない」という条約により、

 ウフィツィ美術館やピッティ宮の膨大な美術品のコレクションは、散逸する
ことなくフィレンツェに留まり、現在に至っている。そして、賢明なるアンナ
・マリア・ルドヴィカを最後に、メディチ家は断絶した。

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 しかしながら、現代のイタリアにもメディチ家は存在する。

 兄脈・弟脈の父となったジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1428)からさ
らに三代さかのぼる、アヴェラルド・デ・メディチより分岐した家系である。

 アヴェラルドの息子、

 サルヴェストロ・(キアリッシモ:輝ける)デ・メディチは、1336年にベネ
チア大使を務めている。

 サルヴェストロから数えて5代目の子孫が、これまでに登場した、

 ロレンツォ・イル・マニフィコ(1449-92)(兄脈)と、
ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ(1462-98)(弟脈)である。


 一方、アヴェラルドの別の息子、
 ジョヴェンコ・デ・メディチから、5代目の子孫に、

 オッタヴィアーノ・(イル・マニフィコ)デ・メディチ(1484-1546)と
いう人物がいた。別脈とでも呼ぶほかはない遠戚である。

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 彼もまた、フィレンツェの行政長官を務めた資産家であり、ヴァザーリの
「画家・彫刻家・建築家列伝」にもパトロンとして登場する。


 このオッタヴィアーノと、後妻フランチェスカ・サルヴィアーティ(マニフ
ィコ・ロレンツォの孫娘)の間に生まれた、アレッサンドロ・ディ・オッタ
ヴィアーノ・デ・メディチ(1535-1605)は、バチカンに送り込まれた。

 オッタヴィアーノが亡きマニフィコ・ロレンツォの遠謀に倣ったのである。
こちらのアレッサンドロは、ヴァザーリによれば“品行方正”で、のちにメデ
ィチ家最後のローマ法王、レオ11世となった。


 オッタヴィアーノと、最初の妻バルトロメア・ジウーニとの間に生まれた、

 ベルナルデット・デ・メディチ(-1576)は“粗暴な”アレッサンドロ・初
代フィレンツェ公(1510-37)の、庶出の娘ジュリア(1534-88)と結婚した。

 そして、ベルナルデットとジュリアは、故郷フィレンツェから離れ、1565年
にナポリ近郊のオッタイアーノ(現在のナポリ県オッタヴィアーノ)を購入し
て、オッタイアーノ侯爵家の祖となった。

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 身寄りがないながらも、誇り高きジュリアは、コジモ1世の実母・マリア・
サルヴィアーティに預けられて育っており、コジモ1世からも実の娘のように
大事にされていた。

 遠い親戚のベルナルデット・デ・メディチとの結婚は、コジモ1世の斡旋に
よるものだったし、オッタイアーノの購入も、亡き妻エレオノーラ・ディ・ト
レドの人脈によるものであろう。

 現代のメディチ家は、このベルナルデットとジュリアの直系である。


 ベルナルデットとジュリアから5代目の子孫であるオッタイアーノ侯、

 ジュゼッペ・デ・メディチ(1688-1743)は、1737年メディチ家最後のトス
カーナ大公ジャンガストーネが死んだとき、正統な継承者として名乗り出た。

 さすがに彼の主張には無理がある。しかし、新大公フランツ・シュテファン
にとってはそうでなかったらしい。

 ジュゼッペは、1743年、あのアンナ・マリア・ルドヴィカ女史が76才で亡く
なったまさにその当日、55才で急死。ハプスブルク・ロートリンゲン家による
毒殺であった。

 しかし、このオッタイアーノ侯爵家の血筋は、ジュゼッペの息子ミケルによ
って、途絶えることなく、現在まで伝わっている。


◆【4】マニエリスムと作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 1.マニエリスムについて

 16世紀初め、ルネサンスの三巨匠と呼ばれた芸術家たちが相次いでフィレン
ツェを去る。

 ダ・ヴィンチはミラノ、ローマからフランスへ渡り、1519年に死去。ラファ
エロは1508年からローマへ移り、1520年に急逝。ミケランジェロも1530年代に
ローマへと旅立つ。

 こうして華々しい個性が咲き誇ったフェレンツェ・ルネサンスも終焉を迎え
ることになる。それはフィレンツェの共和制が倒れ、絶対君主が出現する時代
そして宗教改革への反動が強まる時代と歩調を合わせている。

 マニエリスムはこうした中で産声をあげた。その母体となったのは三巨匠の
芸術である。中でもミケランジェロの人体表現の作風(マニエラ)は最高の規
範として賞讃され、模倣の対象とされた。

 彼らはマニエリストと呼ばれ、ミケランジェロのマニエラを借りながらも、
オリジナルの作品を生み出すために、元になった作品から思想や意味を抜き去
り、組み替え、転用し、変形させた。

 こうしたルネサンスの自由人とは異なるアカデミックな学究的な態度は、美
術学校(アカデミー)の創設へとつながっていく。

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 このマニエリスム芸術は、ルネサンスとバロック芸術のはざまにあって、王
侯貴族の保護(パトロネージ)を受けて16世紀を代表する潮流となるのだが、

 その創始者といえるのが、パルマのパルミジャニーノ(1503-1540)、ロー
マのジュリオ・ロマーノ(1499-1546)、フィレンツェのヤーコポ・ポントル
モ(1494-1556)、ロッソ・フィオレンティーノ(1494-1541)で、次いで

 ブロンズィーノ(1503-72)、ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)、ウィ
ーンの宮廷で活躍したミラノのジュゼッペ・アルチンボルド(1527-1593)、
トレドで認められたギリシャのエル・グレコ(1541-1614)らが続いた。

 その作品の特徴は、

 1.人体のデフォルメ(引き伸ばされたりねじられたポーズ)
 2.非現実的でモチーフ(対象)から遊離した色彩感覚
 3.比喩・暗示・象徴など文学的修辞表現の多用、
 4.空間構成の非調和
 5.快楽表現・エロスの追及

 であり、画面を見る限り、それまでのルネサンス絵画には見られなかった新
しさに満ちており、目が肥え、退屈せる王侯貴族たちを楽しませた。

(画像ページの最下段の作例参照)


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 2.作者アーニョロ・ブロンズィーノ(1503-72)について

 アーニョロ・ブロンズィーノ(Agnolo Bronzino)は本名をアーニョロ・デ
ィ・コジモ・ディ・マリアーノ・トーリといい、1503年11月17日フィレンツェ
郊外のモンティチェリで生まれた。

 彼は初め、ラファエリーノ・デル・ガルボという画家のもとにいたが、十代
半ばでヤーコポ・ポントルモ(1494-1570)の弟子となる。新しい師匠には可
愛がられ、師がなくなるまで、協力者・友人として、律儀に尽くした。

 ポントルモは、若くしてミケランジェロやラファエロに絶讃されるほどの腕
を持ち、大変な美男子だったが、奇人というほかない狷介な性格で、したいと
きにしか、また、気に入った人のためにしか仕事をしなかった。

 仕事場には幕を張って誰一人入れなかったし、住居も梯子式で、本人が上る
と、滑車で梯子を引き上げて、誰も入れない仕組みになっていた。

 これに対して弟子のブロンズィーノは、生涯の友人、ジョルジョ・ヴァザー
リによれば、正反対の穏やかな性格で、他人を罵ることはなく、その優しく親
切な人柄は、誰からも好かれていた。

 ブロンズィーノはポントルモに随行し、フィレンツェ近郊のガルッツオのカ
ルトジオ会修道院、フィレンツェのサンタ・フェリチタ寺院カッポーニ礼拝堂
壁画の制作に参加して、師の技術と様式を吸収した。

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 次第に、個人でも肖像画を手がけるようになり、評判となったブロンズィー
ノは、1530年、ポントルモから離れ、アドリア海(イタリア・バルカン両半島
に挟まれた海)沿岸の町・ペーザロに移住。

 ウルビーノ公爵グイドバルド2世・デラ・ローヴェレ(1514-74)の下で装飾
や肖像画の仕事をし、宮廷生活を体験した。

 この頃の作品に、

「ロレンツォ・レウツィの肖像」1528年(ミラノ、スフォルツェスコ城蔵)
「グイドバルド2世・デラ・ローヴェレの肖像」1532年(ピッティ宮殿蔵)
「緑の服を着た女性の肖像」1532年(英国ウインザー城、王立コレクション)

がある。

 2年後ポントルモに呼び戻されて、ポッジョ・ア・カイアーノにあるオッタ
ヴィアーノ・デ・メディチの別荘の装飾に参加。フィレンツェ公アレッサンド
ロ・デ・メディチの友人や側近たちの肖像画を数多く制作した。

 この頃の宗教画としては貴族バルトロメオ・パンチアティキのために描いた
「聖家族と洗礼者ヨハネ(パンチアティキの聖母)」1540年頃(ウフィツィ美
術館蔵)がある。

 1537年、メディチ家本家のアレッサンドロが暗殺され、分家のコジモが公爵
となった年、ブロンズィーノは早くも、若干17才の「コジモ・デ・メディチの
肖像画」(ペテルスブルグ、エルミタージュ美術館蔵)を描いている。

 この時代の宮廷人、貴族の肖像画として:

「ウゴリーノ・マルテッリの肖像」1535年頃(ベルリン市立美術館蔵)
「バルトロメオ・パンチアティキの肖像画」1540年頃(ウフィツィ美術館蔵)
「ルクレツィア・パンチアティキの肖像画」1541年頃(ウフィツィ美術館蔵)
「ステファノ4世・コロンナ中将の肖像」1546年(ローマ国立古代美術館蔵)
「ピエルアントニオ・バンディーニの肖像」1550年ごろ(カナダ国立美術館)
「ルドヴィコ・カッポーニの肖像」1551年(フリック・コレクション蔵)
「アンドレア・ドリアの肖像」1555年(ミラノ、ブレラ絵画館蔵)
「ルカ・マルティーニの肖像」1561年頃(ピッティ宮殿蔵)

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 ブロンズィーノの力量を知る公爵コジモ1世は、1539年、彼を宮廷画家とし
て迎え、ヴェッキオ宮殿の装飾や公妃エレオノーラ・ディ・トレド専用の礼拝
堂の壁画制作を命じた。

 この礼拝堂に掛けられる予定だった宗教画「十字架降下」1545年(ブザンソ
ン美術・考古学博物館蔵)は、神聖ローマ皇帝の重臣グランヴェーラに贈答品
とされた。

 ブロンズィーノは、これらの仕事と併行して、コジモ1世の家族の肖像画を
次々と完成させている。


「公妃エレオノーラ・ディ・トレドの肖像」1542年(プラハ国立美術館 シュテ
ルンベルク宮殿蔵)

「ビア・デ・メディチ(庶出の娘)の肖像」1542年
「甲冑を纏ったコジモ1世・デ・メディチの肖像」1545年
「エレオノーラ・ディ・トレドとジョヴァンニ・デ・メディチの肖像」1545年
「マリア・デ・メディチの肖像」1551年
「フランチェスコ・デ・メディチの肖像」1551年
「ガルシア・デ・メディチの肖像」1550年
「ルクレツィア・デ・メディチの肖像」1565年(以上、ウフィツィ美術館蔵)

「イザベラ・デ・メディチの肖像」1556年(ストックホルム国立美術館蔵)
「ジョヴァンニ・デ・メディチの肖像」1551年(英国オックスフォード、アシ
ュモレアン博物館蔵)
「フェルディナンド・デ・メディチの肖像」1559年(ルッカ、マンスィ宮国立
絵画館)

 コジモ1世の40才の記念として:

「コジモ1世・デ・メディチの肖像画」1559年(モスクワプーシキン美術館蔵)
「エレオノーラ・ディ・トレドの肖像画」1559年(ベルリン国立絵画館蔵)


 さらに、フランス国王フランソワ1世への進物として、「愛の寓意(アレゴ
リー)」1545年(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)を制作。これは、ブロ
ンズィーノによるマニエリスム絵画の代表作となった。

 同じくコジモ1世の注文でメディチ家の主だった人物の肖像画シリーズをブリ
キの画板に描いた。(ウフィツィ美術館蔵)

 ジョヴァンニ・ディ・ビッチと長男コジモ・イル・ヴェッキオからフランス
の王妃にいたる血統、それに次男ロレンツォ・イル・ヴェッキオからコジモ
1世とその子供にいたる血統に連なる人々である。

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 詩作もよくし、いくつか詩集も出版しているブロンズィーノは、1558年、彫
刻家兼建築家バルトロメオ・アンマナーティーの妻で、文学仲間だった女流詩
人「ラウラ・バッティフェリの肖像」(ヴェッキオ宮殿蔵)を制作した。

 友情にあふれる心のこもった横顔の肖像で、マニエリスム肖像画の代表作に
数えられる。(画像ページ参照)

 ブロンズィーノは、ジョルジョ・ヴァザーリと共に、コジモ1世の協力によ
り、1563年に設立された最古の美術アカデミー、アカデミア・デル・ディセー
ニョ(造形美術学校)の創立者の一人である。

 半世紀近く友人として親しくつきあってきたヴァザーリによれば、老年とな
っても筆が枯れることはなかった。

 ブロンズィーノには、女性の伴侶に関する記録が一切ない。晩年は、弟子ア
レッサンドロ・アローリ(1535-1607)の家で暮らしていたという。

 1572年11月23日、弟子たちに看取られて死去。69才であった。


◆【5】肖像画の内容について ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 的確に容貌をとらえ、衣装を精緻に描きつくすことによって、像主の地位や
身分を明示するこの種の絵画は、国際宮廷肖像画様式と呼ばれている。

 フランス国王フランソワ1世の肖像画を描いたジャン・クルーエ(1480-1541)
 が先駆者といわれているが、その源流をたどれば、ジャン・フーケやヤン・
ファン・アイクまでさかのぼることになるだろう。

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 胸の下に右手を当てて、観る者と視線を合わせる若い女性は、フィレンツェ
に輿入れして3年目のエレオノーラ・ディ・トレドである。夫のコジモ1世との
間にはすでに長女マリアと長男フランチェスコを授かっていた。

 濃紺の背景にクリムソン(深紅色)のサテンのドレスの取り合わせが印象的
である。ストレートヘアーを宝飾が散りばめられた頭飾りで押さえ、大きな真
珠のイヤリングを着けている。

 肉付きが良くて若々しい張りのある、肩から胸を、透かして見せる襟付き肩
衣(partlet)が珍しい。金糸で縁取られた、網目の交差部にはすべて真珠が
縫い付けられ、立った襟元にも金の装飾が施されている。

 両襟は細い糸紐で結ばれている。この肩衣を肩先にのぞく下着の上からはお
り、ドレスの下に差し入れているのが、ドレスと一体もののように見せる。

 深紅のサテンドレスに刺繍された金糸の曲線が、上腕部の大きな皺の動きに
そって、正確に描写されている。

 袖口をわずかに巻き上げているのは、右手を美しく見せるための、画家の注
文であろうか。「家事などを一切したことのない」とよく女性が表現するしな
やかな指先。

 人差し指には夫から送られた結婚指輪、小指にはイニシャル入りの指輪、爪
は伸ばしていない。

(一般に、肖像画に描かれた女性たちは、爪を切り揃えているようで、とすれ
ばあの、まるで清潔そうに見えない習慣は近代に発生したものらしい。)

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 以上のように、文字でもって細かく描写できるのは、暗変したり変色したり
することのない、画家の適正なメチエ(技量)によるものである。

 グラッシ(薄く溶いた絵具を何度も塗り重ねて色の深みを出す画法)に頼り
すぎていないために、影になる部分は、暗くなっても黒くはならず、固有色の
美しさを保っている。

 壁画や祭壇画に用いられるマニエリスト特有の、濁りを取り除いた非現実的
な色彩表現とは異なり、ドレスの赤が画面の他の部分から遊離せず、シックに
調和している。

 この絵についてここまで触れた点については、何一つ不完全なものはない。

---------------------------------------------

 然るに、この顔の描き方は何だろう。

 もちろんエレオノーラの特徴はきちんと捉えられているから、この絵の女性
を街頭で見かけたとしても、その人と分からないことはないだろうが、

この絵は、その容貌の美しさを十分に伝えていながらも、どこか描き足らない
印象がある。血と肉と毛穴、唇の皺や産毛まで見えるはずなのだ。

 しかし画家は、モデルとの距離を縮めようとはしなかった。

 その原因は二つ考えられる。

 一つは、モデルの時間的な制約である。

 作品の成否は、モデルとなる人が画家のためにどれだけポーズの時間を割く
ことができるかという一点にかかっている。

 多忙で退屈なことの嫌いな公妃エレオノーラが、長時間画家の前でポーズす
ることを厭わないはずがなかった。

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 そしてもう一つが、カルトーネ(原寸大下絵)の使用である。

 それはモデルの時間的な制約に対する、画家の側からの対応策であるが、彼
女の前で紙に詳細なデッサンだけを行う方法である。鉛筆、木炭、チョークだ
けで白黒の陰影だけが施された顔中心の下絵を作成する。

 これだけなら長時間かかることはない。街頭で行う短時間の似顔絵描きのよ
うなものを、もう少し精緻なものにする必要はあるけれども。

 モデルがいなくなってから、カルトーネの輪郭線を本絵に転写(トレース)
して、カルトーネを見ながら絵の具を用いた本制作を行うのである。

 色彩に関しては、モデルの前で、文字の覚え書きを入れることも、或いは淡
彩(水彩絵具)で残すこともある。原寸大ではない、参考スケッチを数枚作っ
ておくこともある。

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 ある程度、彩色が進めば再度モデルに来てもらい、短時間ポーズしてもらっ
て色彩を調整する。

 こういったやり方で絵を完成していくのだが、エレオノーラを見れば分かる
とおり、その広い額、口唇、頬、眼差しに情報不足が露呈してしまっている。

 他方、豪華な衣装は、といえば、公妃から預かってマネキンに着せているの
で、これを見ながら時間をかけてじっくりと描き込むことが可能であった。

 エレオノーラの容貌と、それ以外の部分の描き込みの、著しい落差はこうし
て生じたのである。

---------------------------------------------

 これが現代の話となると、写真があるために状況はもっと悪くなる。

 通常の肖像画制作では、モデルと対峙することは皆無になってしまった。写
真を使えば一切モデルをする必要はない、というのが常識である。

 制作は100パーセント写真に頼らざるを得ないが、情報量からいえば、カル
トーネとおなじようなものである。けっしてカルトーネ或いは写真以上のもの
にはならない。

 往時の画家のようにモデル制作を復活させない限りは、肖像画芸術の生まれ
る余地はないだろう。

---------------------------------------------

 閑話休題。

 本作品はマニエリスム肖像画の傑作のひとつに数えられるが、ブロンズィー
ノ自身はマニエリスムのマニエラ(手法)を使って描いているわけではない。
マニエリストが描いた正統派の肖像画というべきである。

 にもかかわらず本作品と、自由人ラファエロやギルランダイオやフーケの描
いた肖像画との落差。

 或いは、ブロンズィーノ自身の作品と作品の間に感じられる落差。

 一連の「エレオノーラ」や「コジモ1世」の肖像画に対して、

その子供の「フェルディナンド」と「イザベラ」は明らかに異なっている。
「ステファノ4世・コロンナ中将」と「緑の服を着た女性」も同様で、

 これらの絵には見る者と心を通わせる何かがある。

 筆者は、ブロンズィーノの描いたコジモ1世の子供たちの肖像画を全て確認
したが、「フェルディナンドの肖像」だけは特筆すべきであろう。

 後年、愚者を抹殺して自らが善政をしく政治家の素質を、その輝く瞳に認め
るというわけにはいかないけれども、他の兄弟姉妹とは明らかに違う表情を彼
一人が見せている。彼の顔にだけ意志があるのだ。

 それを画家は確かに感じ取り表現している。

(画像ページ参照)

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 これに対して、「エレオノーラ」の冷やかな威厳、堅苦しい高貴さは、自分
から距離を置くようにと私たちに命じているかのようである。

 そこに描かれた顔が、“極端に無表情でよそよそしく、血の通わないどっち
つかずの心情”を見せていたとしても、

 それはフィレンツェ公妃エレオノーラ・ディ・トレドと、控えめで礼儀正し
い宮廷画家アニョロ・ブロンズィーノとの間の、人間関係を写し出しているの
にすぎない。

 もちろん、彼にはもう一歩踏み込むこともできたかもしれないが、あえてそ
うせず、無難にこなすことが、彼のバランス感覚であっただろう。

 ブロンズィーノの画家としての資質と技量は、歴代肖像画家の中でトップク
ラスである。

 しかしその彼をもってしても、モデルを画家の協力者に取り込めない限りは
それなりの作品しか創造できないという事実を、この肖像画は教えてくれる。


---------------------------------------------

〈参考文献〉

「NHKフィレンツェ・ルネサンス6 花の都の落日 マニエリスムの時代」佐
々木英也監修(日本放送出版協会)1991年

「マニエリスム芸術論」若桑みどり著(ちくま学芸文庫)1994年

「図説メディチ家 古都フィレンツェと栄光の『王朝』」中嶋浩郎著(河出書
房新社)2000年

「メディチ家の墓をあばく X線にかけられた君主たち」ドナテッラ・リッ
ピ、クリスティーナ・ディ・ドメニコ著(白水社)20006年

「フィレンツェ貴族からの招待状」山下史路著(文藝春秋)1998年

「フィレンツェ(上)」クリストファー・ヒバート著(原書房)1999年

「続ルネサンス画人伝」ジョルジョ・ヴァザーリ著(白水社)1995年

「美術の歴史」W・H・ジャンソン著(創元社)1980年

"The New Encyclopedia Britanica"


◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 次号から、ブロンズィーノとほぼ同時期にアルプスの向こう側で活躍した肖
像画の巨匠ハンス・ホルバインを2回に分けて取り上げます。

 スイスのバーゼルで修行を終えたホルバインはロンドンにて名声を確立し、
イギリス国王ヘンリー8世の宮廷画家となります。

 モデルの内も外も描き尽くす、ホルバインの肖像画には、現在に至るまで称
讃の声が絶えません。

 ヘンリー8世はイギリスで最も人気のある王といわれます。彼はローマ法王
と対決してまで、禁じられていた離婚を合法的なものに変えました。その結果
彼の妻といわれる女性は6名を数えます。

 その中からホルバインが全身全霊を込めて描いた、一人の女性を次号では紹
介したいと思います。

 次回「イギリス国王ヘンリー8世の妻の肖像」を何卒ご購読のほどよろしく
お願いたします。


◆【7】編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 暗殺とか毒殺とか血生臭いお話が続きますが、日本でいえば、室町末期のま
さに戦国時代にあたります。織田信長(1534-1582)の頃の歴史なんですね。

 フィレンツェのコジモ1世(1519-74)やエレオノーラ(1522-62)とまさに
同時代人なのが、甲斐の武田信玄(1521-73)なのでありました。

---------------------------------------------

 最後に、最近読んだ『フィレンツェ貴族からの招待状』という書籍から、現
代イタリア貴族のお話を少々。

 メディチ家はそうではないそうですが、ルネサンス期の高名な画家の作品や
先祖代々の肖像画を数多く所持している名門は数十あるようです。

 それらのほとんどは門外不出で、展覧会に出ることはありません。経済的に
止むを得ない場合にはオークションにかけられるのでしょうが、秘蔵作品のた
め、美術史上の大発見となるケースもままあります。

 バブル期に乱舞した例の日本人とは異なり、死蔵ではないので何ら批判する
点はありませんが、なぜそれほどまでに秘するのかといいますと、第一に盗難
第二に税務署をひたすら怖れるゆえです。これは日本の資産家も同じです。

---------------------------------------------

 で、お話は今回たびたび登場した、“粗暴なる”第1代フィレンツェ公・ア
レッサンドロ・デ・メディチの、最後にまつわる女性です。

 あの日、アレッサンドロの寝室に潜んでいたのは、剣を握った友人で暗殺者
のロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョともいわれる)であり、公
爵ひとりが、自ら流した血の海に横たわることになります。

 そのアレッサンドロが横恋慕して、部屋に寄越すようロレンザッチョに口利
きを頼んだ美女というのは、ある有力貴族の人妻で、カテリーナ・ソデリーニ
という評判の貞淑な女性でした。

 彼女はロレンザッチョにとって、年若い叔母にあたり、実母マリア・ソデリ
ーニの妹でしたから、アレッサンドロはよもや疑うこともなかったでしょう。

 そしてカテリーナ・ソデリーニ本人もそんな忌まわしい情事の企てなど、知
る由もなかったはずです。

 あれから4世紀以上を経た現在も、彼女の美しい肖像画は、公開されること
なく、子孫の邸宅の居間に掛かっているそうです。

 所有者の友人である著者の山下史路によれば、肖像画のカテリーナは、知的
な美女だったそうで、先の事情により、作者のことは教えてもらえなかったけ
れども、ブロンズィーノのように思われると書いていました。

---------------------------------------------

 ここまで書いたことろで何気なく検索していましたらモノクロ写真が出て来
ました。収蔵場所まで出ていますので、書いてもさしつかえないのでしょう。

 「カテリーナ・ソデリーニ・ジノリの肖像」(フィレンツェ、ジノリ宮殿)

 1560年頃の作品で、すでに1537年においてジノリ家当主のレオナルド・ジノ
リと結婚していることから、描かれた当時は40才過ぎの中年婦人でしょうか。
冷たい感じのする女性です。

 作者はブロンズィーノの弟子の、アレッサンドロ・アローリ(1535-1608)
または、ヴァザーリの助手を務めたジローラモ・マキエッティ(1535-92)に
帰せられる、若描きの作品でした。

 いずれにしろブロンズィーノではなさそうです。かなり腕は落ちます。

 けれども、そうやって身内の肖像画が時代を超えて大切にされているのを
見てうらやましく思いました。


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