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時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0020
2012年02月20日発行
★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。
織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ ……古今東西の肖像画を画家と一緒に読み解いてみませんか?
□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 ボッティチェリ作「若い女性の肖像画」
(ピッティ宮殿・パラティーナ美術館)
【2】 肖像画データファイル
【3】 像主について
【4】 作者について
【5】 肖像画の内容
【6】 次号予告
【7】 編集後記
◆◆【1】ボッティチェリ作「若い女性の肖像画」◆◆
ピッティ宮殿に伝わるメディチ家コレクションの中で、ボッティチェリ作 「若い女性の肖像」は別名「美しきシモネッタ」と呼ばれています。
モデルはジュリアーノ・デ・メディチの愛人、シモネッタ・ヴェスプッチとい われていましたが、現在では、さらにクラリーチェ・オルシーニ、或いは、フ ィオレッタ・ゴリーニという名前が候補に挙げられています。
クラリーチェは、ジュリアーノの兄、マニフィコ・ロレンツォの妻の名であ り、フィオレッタは、ジュリアーノのもう一人の愛人の名でした。
さて、なぜこのような説が浮上したのでしょうか。私たちは、謎のモデルを ただ一人に特定しなければなりません。
★ボッティチェリ作「若い女性の肖像」はこちら
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p20.html
◆◆【2】肖像画データファイル◆◆
作品名: 「フィオレッタ・ゴリーニの肖像画」
作者名: サンドロ・ボッティチェリ
材 質: テンペラ(ポプラ材のパネル)
寸 法: 61.3×40.5cm
制作年: 1478年
所在地: ピッティ宮殿・パラティーナ美術館(イタリア・フィレンツェ)
注文者: ジュリアーノ・デ・メディチ
意 味: メディチ家の当主マニフィコ・ロレンツォの弟ジュリアーノは、愛 人フィオレッタ・ゴリーニの肖像画を、メディチ家に最もなじみのある画家に 描かせた。
おそらく、フィオレッタは妊娠していたと思われるが、ゴリーニ家の家柄は メディチ家とつり合わないものだったため、彼女を婚約者とすることは許され なかった。
若きジュリアーノは、その美しい容姿をいつでも見ることができるようにと 考えてフィオレッタの肖像画を描かせたに違いない。
肖像画・油絵の注文制作 肖像ドットコム https://www.shouzou.com/
◆◆【3】像主について ◆◆
1.シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ(1453-76)説
シモネッタ・カッタネオ(Simonetta CATAANEO)は、ガスパル・カッタネオ とヴィオランテ・スピノラの娘として、北イタリア第一の港町ジェノヴァの名 家に生まれた。
一家はジェノヴァの権力闘争の末に追放処分となり、少女シモネッタは母・ ヴィオランテと共に、ビオンビーノの領主・ヤコポ・ダッピアーノを頼った。
ヴィオランテは夫ガスパルと出会う以前に、前夫との間に娘があり、この娘 バティスティーナがヤコポ・ダッピアーノの妃となっていたためである。(こ のバティスティーナとシモネッタは、父を異とする実の姉妹であった。)
そこにフィレンツェからピエロ・ヴェスプッチと息子のマルコが訪れた。
ピエロは、父親がフィレンツェの行政長官を務めた名士ジュリアーノ・ヴェ スプッチだったが、彼自身は堅気ではなく、以前ヤコポ・ダッピアーノと一儲 けしたことがある仕事仲間だった。
美しいシモネッタはピエロの目にとまり、ヴィオランテとヤコポを説得して 息子のマルコと結婚させた。1469年、シモネッタ、マルコともに16才のときの ことである。
新婚夫婦はピエロと一緒にフィレンツェに向かった。
フィレンツェの有力市民であり親メディチ派のヴェスプッチ一族はアルノ川 沿いのオニサンティ地区に集住しており、当時24才の画家ボッティチェリは、 父の代からの隣人だった。
マルコは平凡な目立たない青年だったが、妻シモネッタの美貌はフィレンツ ェの人々の目を釘付けにした。メディチ家のマニフィコ・ロレンツォとジュリ アーノの兄弟もとりことなった。
こうして美しきシモネッタはメディチ家の祝典が催される際に、パーティの 女王としてかり出されることになる。
当時富豪の祝宴に付随して「ジョストラ;giostora」(騎馬槍試合)が大々 的に行われた。
これは本当の一騎打ちではなく、名家が勢揃いして出で立ちの贅を競うショ ーであり、優勝者(といっても主催者の一族であるが)は美の女王に勝利を捧 げるのである。
1475年1月29日にサンタ・クローチェ広場で行われたミラノ・ヴェネチア・ フィレンツェ同盟成立を祝う騎馬槍試合は、優勝したジュリアーノ・デ・メデ ィチにちなんで「ジュリアーノのジョストラ」と呼ばれている。
広場中央のバルコニーには三美神として、22才のシモネッタ・カッタネオ・ ヴェスプッチとルクレチア・ドナティ(同じく人妻だがマニフィコ・ロレンツ ォの愛人と称される)、それにアルビッツィ家の娘が並んだ。
絶世の美女シモネッタは、これ以後フィレンツェ一の美男子ジュリアーノ・ デ・メディチの恋人として噂されるようになるのだが、実のところは邪気のな いプラトーニックな関係だったようである。
真冬に行われたこの祝典のあと、ほどなくしてシモネッタは床に臥せり、1 年余りのちの1476年4月26日、ついに帰らぬ人となる。彼女は死の病・結核に 冒されていた。
このシモネッタの死に際して、詩人でもあったマニフィコ・ロレンツォが彼 女に捧げる詩を書いた。その詩に自ら以下のような解説文を付している。
「私の町で一人の若い女性がなくなった。フィレンツェの人々は、皆、町
をあげて同情し心を動かされたのである。…彼女は、本当に誰よりも人間
としての美しさと優しさをそなえていたからである。
そしてその性格は、まことに甘美で心を引かれるものがあった。だから
彼女と会った人々は誰も、本当に彼女に愛されているものと信じた。
…これは、かくも多数の男性が嫉妬もなく愛情を抱き、かくも多数の女
性が羨望もなく賛美したということである。」
画家ボッティチェリにとっては、シモネッタは7年の間、隣人であったから 彼女の美しさには強い印象を受けていたのであろう。あるときからボッティチ ェリの描く美人像にはすべてシモネッタの面影が見られるようになる。
彼女の死後、ヴェスプッチ家から注文を受けて描いた1482年制作の「ヴィー ナスとマルス」(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)のヴィーナスの顔は、 間違いなくシモネッタのそれである。
やはり、彼女の死後描かれたフランクフルトのシュテーデル美術館の「シモ ネッタ・ヴェスプッチの肖像」の顔と完全に一致する。(参考図参照)
このシモネッタの顔はウフィツィ美術館の「春の寓意(プリマヴェーラ)」 にも、「ヴィーナス誕生」にも、「ざくろの聖母」にも、サン・バルナバ聖堂 の「聖母子と聖人たち」にも、明らかに認められる。
さて今回のメルマガのテーマ作品「若い女性の肖像」(ピッティ宮殿)であ るが、そこに描かれた顔は、ボッティチェリの一連の代表作に現われるシモネ ッタの顔とは著しく異なるものである。
目、口、鼻、眉、髪の色、髪型、衣装、まるで共通するものがない。
「若い女性の肖像」はまさしくモデルと対峙して描いた生前の肖像画であり それ以外のシモネッタ像は、死後の作品であることを念頭において、百歩譲っ たとしても別人の顔である。
「若い女性」がシモネッタ・ヴェスプッチだったとしたら、彼女の死後、そ の画像を描くとき、生前に描いた絵を参考にするのが当然で、必ずその面影は 反映されるのである。
また、「若い女性」の慎ましやかな衣装は、ヴェスプッチ家の嫁の、或いは フィレンツェ中の賞賛を受けた女性の身分のものではない。
したがって、この絵のモデルはシモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチでは ないと断言できる。
2.クラリーチェ・オルシーニ(1453-88)説
クラリーチェ・オルシーニ(Clarice ORSINI)は、ロレンツォ・イル・マニ フィコ・デ・メディチ(筆者はマニフィコ・ロレンツォと略している)の妻で ある。結婚式は1469年6月9日に行われた。
オルシーニ家はローマの最高の名家の一つであり、ナポリ王国にも広大な所 領を持っていた。
メディチ家がそのような一族と結びつくことは、勢力増強と考えられ、フィ レンツェの多くの人々にとっては、受け入れがたいものだった。
この結婚の推進者はロレンツォの母ルクレツィア・トルナブオーニである。
彼女はメディチ銀行ローマ支店長である弟ジョヴァンニ・トルナブオーニ への訪問を口実に、ローマ在住のクラリーチェの下見さえしていたのである。
ロレンツォの父、メディチ家第2代当主ピエロ・イル・ゴットーソは痛風で 歩くことさえままならず、この年の暮れには亡くなっている。
こうして姑に迎えられ、フィレンツェに嫁いで来た16才の新婦であるが、新 郎の容姿にはさぞかし肝をつぶしたことと思われる。
新しい当主となる20才のロレンツォは、血色の悪い浅黒い顔に、嗅覚のない 母譲りのつぶれた鼻、しゃがれた鼻声。そして前に張り出した顎は下唇が上唇 を覆い隠すほどだった。
しかしながら、この夫は実際、聡明で、ユーモアを解し、快活な包容力ある 魅力的な男だったから、こののち夫婦仲は悪くはなかった。二人の間に生まれ た子供は7人とも10人とも言われている。
クラリーチェの容姿も特に美しいというほどでなく、十人並みだったという ルクレツィアの言葉が残っている。
クラリーチェはローマ出身を誇るような高慢さを見せず、賢く謙虚に振舞っ た。多情な夫の浮気にも目をつぶっている。しかし、多産のためか、次第に体 調を崩し、1488年に34才で亡くなった。
さて、彼女が「若い女性の肖像」のモデルであるのかどうか、これについて は議論の余地がない。
名家出身のクラリーチェの肖像画は、筆者が確認できただけでも4種類あり これらもまた、「若い女性」と共通する点は皆無だった。(参考図参照)
第一に骨格が異なり、第二に目鼻立ちが完全に別人である。
第三にその、衣装そして被り物の落差である。クラリーチェの衣装は豪華で 帽子もエナンといわれる当時の貴族の間で流行したものを被っている。若い画 像も中年の画像もすべてエナンを被っている。
一方「若い女性」のそれは、何一つ富を暗示していない。
したがって本作品のモデルはクラリーチェ・オルシーニではありえない。
3.フィオレッタ・ゴリーニ(1461-78?)説
フィオレッタ・ゴリーニ(Fioretta GORINI)は、アントニオ・ゴリーニの 娘でおそらく1461年の生まれである。
これ以上の彼女の出自は分からない。ゴリーニ家がフィレンツェにおいてど ういう位置にあったのか皆目資料が見当たらないためである。
現代イタリアの演劇の紹介文で、身分の低い衣服商人の娘とされている情報 を見たが信憑性は不明である。
確かなことは、フィオレッタがジュリアーノ・デ・メディチの愛人であり、 彼が1478年4月26日にパッツィ家の陰謀により暗殺されたとき、子供を身籠っ ており、1ヵ月後にジュリオと呼ばれる子供を生んだという事実である。
ジュリアーノは25才、フィオレッタは17才に過ぎなかった。絶望のためか、 彼女もほどなくして亡くなっている。
ジュリアーノの兄、マニフィコ・ロレンツォは、甥のジュリオを引き取り、 我が子と同様に育てた。
あるときロレンツォは、メディチ家が歴代ローマ教皇との関係に苦しんで来 た経緯から、その関係改善に楔(くさび)を打ち込む妙案に行きついた。
幼い次男ジョヴァンニをバチカンの中枢に送り込んだのである。フィオレッ タとジュリアーノの遺児・ジュリオをも続けて送り込み、長じてジョヴァンニ の補佐をさせる腹積りだった。
マニフィコ・ロレンツォの死から21年後の1513年、その思惑通り、ジョヴァ ンニはレオ10世としてローマ教皇の座に就く。
(彼の治世は問題が多かった。あらゆる罪を贖えるという免罪符の販売が宗教 改革の引き金となり、その波紋は現代まで及んでいる。)
一方、ジュリオは、大変な美男子に成長していた。
しかし、両親を知らず、幼くしてロレンツォ一家からも引き離され、バチカ ンという陰謀渦巻く世界に放り込まれたためか、虚言癖があり、態度は冷たく 外見は陰気だったという。
ただ、従兄弟の引き立てにより枢機卿に昇進した彼の評判は高かった。
さらに10年がたち、今度は、当のジュリオが、クレメンス7世としてローマ 教皇に就任した。
しかし、クレメンス7世もまたローマでは人気のない教皇であり、芸術・文 芸の擁護者であったことを除けば、政治的には全く無能だった。
そして1527年、自らの外交上の失策が、神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢に よる『ローマ劫掠』という大惨事を引き起こしている。
彼は黒人の召使いとの間にアレッサンドロという子をもうけ、19才になった 年にフィレンツェ公に据えた。
無教養で粗暴な息子アレッサンドロは、クレメンスが1534年に死去すると暴 君としての本性を露わにした。彼は3年後、分家のロレンザッチョにより暗殺 され、メディチ本家の歴史は途絶えてしまった。
さて、ここで最初の問いに戻る。本作品「若い女性の肖像」のモデルは、フ ィオレッタ・ゴリーニであろうか。
まず、フィオレッタという女性は、メディチ家の御曹司ジュリアーノとの結 婚が許されない立場にあったことに注目したい。
もし彼女が身分の高い家柄の女性だったら、妊娠している身で、婚約してい ても不思議ではなかった。
メディチ一族にとっては、彼らの結婚が何の利益ももたらさないものであっ たはずであり、
彼女はその美貌ゆえにジュリアーノに見初められたけれども、ジョストラな どパーティの晴れ舞台に立ったことは一度もない。
筆者は漠然と、あまり裕福でない商人の娘と考えていたのだが、あるいはフ ィオレッタは、召使いとしてメディチ家に仕える身だったということもあり得 るだろう。
さらに、書物の中で偶然見つけた、フィレンツェの『奢侈禁止令』の中の奴 隷に関する記述も気にかかった。
「奴隷の場合は、上着も、ドレスも、どのような袖付き衣服も、鮮やかな
色のものは、着ないように、また彼らのかぶり物はリンネル(麻)のタオ
ルに、履き物は木靴に限るように、厳格に命じられていた。」
ところが、当時のフィレンツェにおいて、奴隷は珍しいものではなかった。
近隣の都市国家間で戦争が起こるたび、捕えられた敗者は奴隷として売買の 対象となり、貿易の代償として国外に売り飛ばされることも多かった。
またアフリカから黒人奴隷が入る以前には、黒海、ギリシャ、バルカン諸島 から奴隷が輸入され、スラブ系コーカサス系の白人女性は高値で売買された。
1450年頃のフィレンツェでは500人を超える奴隷が使われていたという。
なにしろ、わが豊臣秀吉が、バテレンによる日本女性奴隷売買に激怒した時 代から、100年はさかのぼる奴隷貿易の本場・ヨーロッパの話である。ジェノ ヴァなどは奴隷の積出し港として栄えていたのである。
つまるところ、肖像画の女性が、「奴隷」「召使い」或いは「家格の低い商 人や職人の娘」のいずれであったにせよ、
それゆえに、彼女の衣装の質素極まりないこと、ジュリアーノとの婚約が許 されなかった事実、さらに肖像画が誰のものか分からなくなっていることにつ いて、説明がつくのではないだろうか。
次に本作品「若い女性」の横顔と、その実子ジュリオ・デ・メディチ枢機卿 のちのクレメンス7世の横顔を比べてみてほしい。(参考図の最下段)
瞳のやわらかさ、眉の形、鼻骨の流れ、唇の形、どうも酷似しているようで ある。母に生き写しと言ったら言い過ぎだろうか。
最後に、『フィオレッタ・ゴリーニ説』を裏付ける研究がないかと探してみ たところ、
イギリスの歴史家・王立文学協会会員クリストファー・ヒバート(Christopher HIBBERT)著『フィレンツェ』(原書房)の原注の中に、次の記述があった。
現在パラッツォ・ピッティにある、『茶色のドレスを着た若い夫人の肖
像』は、以前は、クラリーチェ・オルシーニまたはシモネッタ・ヴェスプ
ッチを描いたものと信じられていたが、現在では、ジュリアーノ・メディ
チの愛人で、のちに教皇クレメンス七世になるジューリオの母フィオレッ
タ・ゴリーニの可能性が高いと考えられている。
筆者は、現時点において、「若い女性の肖像」のモデルは、フィオレッタ・ ゴリーニであるとして問題ないだろうと考えている。
◆◆【4】作者サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)について◆◆
サンドロ・ボッティチェリ(本名アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィ リペーピ)は皮なめし職人マリアーノ・フィリペーピの四男として誕生した。
彼らの住んでいたオニサンティ地区は、アルノ川の水を利用した羊毛加工業 の中心地であり、親メディチ派の実業家・ヴェスプッチ一族の集住する地区で あった。
コロンブスによってインドと考えられていた土地(アメリカ)を、未知の大 陸であると初めて認識した航海者、アメリゴ・ヴェスプッチは、ボッティチェ リの10才年下の隣人である。
ヴェスプッチ一族はぶどう酒・絹・羊毛売買、金融・貿易を営むフィレンツ ェの有力市民で、駐フランス大使、駐スペイン大使、行政長官、公証人、人文 学者など多数の有名人を輩出していた。
そして彼らはメディチ家と並んで、ボッティチェリの終生変わらぬ良きパト ロンとなる。
幼い頃のサンドロは、生来落ち着きのない子供で、算数など興味のないこと には打ち込むことができず、はやばやと金細工師の徒弟にさせられた。
ところが、絵を描くことに夢中になったため、結局、ヴェスプッチ家の口利 きにより、カルメル会修道士で、有名な画家であるフィリッポ・リッピの下で 修行をすることになった。
彼は師の優れた技術と画風をものにすると、次いでヴェロッキオの工房にも 出入りした。そして24才で独立し父の家で仕事を始め、25才のときには商業裁 判所の注文でテンペラ画「剛毅」を制作、画家として公的デビューを飾った。
1472年27才で、聖ルカ画家同信会に入会。師の息子フィリピーノ・リッピを 弟子として工房を開設。徐々に独自の画風を確立し、フィレンツェの上層市民 からの注文を次々に受けるようになる。
1475年制作の「東方三博士の礼拝」は、メディチ家と親しい銀行家ガスパー レ・デル・ラーマの注文によるものだった。
メディチ家本家の1代目当主コジモ・イル・ヴェッキオ、2代目ピエロとその 弟ジョヴァンニ、3代目のマニフィコ・ロレンツォと弟ジュリアーノ、その他 多くの文化人が丹念に描き込まれ、フィレンツェでの名声は一気に高まった。
1480年には神学者ジョルジュ・アントニオ・ヴェスプッチの注文で、オニサ ンティ教会に壁画「書斎の聖アウグスティヌス」を制作。これはギルランダイ オの「聖ヒエロニムス」との競作で、二人は画壇の第一人者になっていた。
1481年にはバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画制作に参加し、「キリスト の試練」「モーゼの試練」「反逆者たちの懲罰」を完成。
ボッティチェリは教皇から多額の報酬を受けながら、ローマの旅先で、全部 使い果たしてしまったという話が伝わっている。
1482年制作の「マニフィカト(荘厳)の聖母」には、同性愛者であったボッ ティチェリの美少年趣味が色濃く反映されている。
あるとき彼はパトロンから、ある女性との結婚を勧められ、ひどく悩み、一 晩中、街をさまよい歩いたという逸話もある。
この頃、マニフィコ・ロレンツォの注文で、メディチ宮(パラッツォ・メデ ィチ)の装飾のために、有名な「春の寓意(プリマヴェーラ)」を制作。
これはあのパッツィ家によるジュリアーノ暗殺があった1478年から遠くない 時期に描かれており、マニフィコ・ロレンツォにとって忘れ難いシモネッタ、 ジュリアーノ、フィオレッタらへのオマージュであったと考えられている。
1488年にはマニフィコ・ロレンツォの又従兄弟に当たる、分家の富豪、ロレ ンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(1463-1503)の注文に よって「ヴィーナスの誕生」を制作。
海の泡から生まれたヴィーナスの顔は、まぎれもないシモネッタ・カッタネ オ・ヴェスプッチ(1453-76)のそれであった。
分家のロレンツォは、セミラミデ・ダッピアーノを妻としているが、彼女は バティスティーナの娘であり、今は亡きシモネッタ・カッタネオの姪である。
少年時代に仰ぎ見た、絶世の美女シモネッタを描いたヌード像を前に、ロレ ンツォ・ディ・ピエルフランチェスコは感慨深かったことだろうと思われる。
現在「春の寓意」と「ヴィーナスの誕生」は、ウフィツィ美術館(メディチ 家の旧オフィス)に、一対として展示されている。
1490年頃からは、再びロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコの注文で、 ダンテの『神曲』の版画制作に没頭した。ボッティチェリは他のタブロー(色 彩作品)の制作をすべて止めたため、非常に困窮したことが伝わっている。
1492年にマニフィコ・ロレンツォが死ぬと、メディチ家の腐敗を弾劾する怪 僧サボナローラの神権政治の時代となった。
メディチ家本家はフィレンツェから追放されたが、分家のロレンツォ・ディ ・ピエルフランチェスコらは、メディチの名をイル・ポポラーノと変えてフィ レンツェに留まった。
この頃の作品に「アペレスの誹謗」があるが、ボッティチェリも熱烈なサボ ナローラ支持者となり、自らの仕事をだんだん顧みなくなっていった。
1498年サボナローラが失脚したあとは、ますます制作力が減退し、1501年の 「神秘の降誕」(ウフィツィ美術館)以降はほとんど筆を絶つようになった。
そんな彼を相変わらず援助したのはロレンツォ・ディ・ピエルフランチェス コだったが、彼も1503年には亡くなった。
晩年のボッティチェリは、文無しとなり、まっすぐ立てず、オニサンティ界 隈を、2本の杖にすがって歩く姿が、時折見られたという。
彼は1510年に65才で亡くなった。その亡骸はヴェスプッチ家によって、自宅 近くのオニサンティ教会に葬られた。
◆◆【5】肖像画の内容について ◆◆
この肖像画を、一見して気づくのは、容貌の美しさとともに、この時代の肖 像画のモデルが着用するものとしては、慎ましやかともいえる衣装であろう。
半永久的に残る肖像画のモデルになる際着用するのは、大抵は晴れの衣装な のだが、彼女のは普段着のようでもある。
前号で紹介した「ジョヴァンニ・デリ・アルビッツィの肖像」の衣装と比べ てみてほしい。明らかにこちらは上流のものであり、絢爛とも形容できる。
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p19.html
これに対して、ボッティチェリがさらっと描いた暗い色のドレスは、ネック レスの紐以外に目立った装飾がないので、質素に感じられるし、
その髪型も流行のものではない。。頭に被っているのは頭巾(カプッチョ) であり、労働するときにする実用的な髪覆いである。
もしかしたらフィオレッタは妊娠しているのかもしれない。だとすれば、彼 女が後にジュリオと名付けられる子を出産したのは、1478年5月、17才のとき のこととされているので、制作年は1477もしくは78年と推定できる。
さて、この美しい肖像画について、画家である筆者の伝えたいことは、 “線の妙”にある。
線の妙とは、一筆書きだけを指すのではなく、
現われ、伸長し、途切れ、かすれ、重なり、また生まれ、こわばり、消える
その営みにある。
フィオレッタの額から首にいたる線の、うなじから背にいたる筆の跡を、 800×800ピクセルの拡大画像で見てほしい。
⇒ https://www.shouzou.com/mag/p/f13.jpg
彼女を背景から区切る輪郭線は、一体いくつの線に分解できるのだろう。
その線描のひとつひとつが、画家の息づかいによって生まれている。
そうして、分解された線のひとつひとつが、彼女の肉体の柔らかな曲面を形 作っているのである。
一の線は、鋭く切り立ち、空間からプロフィールをえぐり出す。
二の線は、フィオレッタの鼻をなでながら、向こう側にそっと回り込む。
三の線は、あごのあたりをぎこちなく束なり連なり蠕動(ぜんどう)する。
四の線は、白いうなじを真二つに分断するペンダントの紐となる。 その曲線がフィオレッタの首筋の凹凸に沿って、波打つのが見えるだろうか。
五の線は、胸をすべって突き出た腹へと流れ、肘から背に廻って上昇する六 の線となって生成し、後頭部の頭巾の絞りで終息する。
どうか、七の線、八の線と、自由にたどってみてほしい。
そしてこの美しい曲線が、壁を区切る窓枠や、まぐさ(窓の上の水平部材) の直線とぶつかることによって生み出される絶妙のハーモニー。
その直線も、ただ四角四面に描かれるのでなく、息づいている。
このように、見事にフィオレッタという女性を写し取る、その自然な線描こ そ、まさに巨匠の手になる仕事というべきである。
元来、線とは、描かれる(線描)以前に、鋭く尖ったもので、切り刻まれる (線刻)行為によって生まれたものであった。
書や画の大家の生み出す線は、小刀による刻線と同一のものである。
同一の集中力と気合、精神と熟練を必要とする。さもないと刃は指を裂く。
この肖像画における線描の鋭さは、作者ボッティチェリが、若い頃、金銀細 工師の下で修行したことと無縁ではない。
〈参考文献〉
「フィレンツェ(上・下)」クリストファー・ヒバート著(原書房)1999年
「フィレンツェ史」ピエール・アントネッティ著(白水社)1986年
「フィレンツェ」若桑みどり著(文芸春秋)1994年
「NHKフィレンツェ・ルネサンス4」(日本放送出版協会)1991年
「図説メディチ家」中嶋浩郎著(河出書房新社)2000年
「アメリゴ・ヴェスプッチ」色摩力夫著(中央公論社)1993年
「ルネサンス画人伝」ジョルジョ・ヴァザーリ著(白水社)1982年
「フィレンツェ・ルネサンス 芸術と修復展」(日本放送協会)1991年
"BOTTICELLI" BRUNO SANTI著(Scala Istitute Fotografico Editoriale) 1976
◆◆【6】次号予告◆◆
昨年、米・コロンビア大学のシーナ・アイエンガー教授の授業風景が、NHK の「コロンビア白熱教室」という番組で放映されました。
その中で、大変面白かったのが、1960年代にウォルター・ミッシェルという 心理学者が行った、マシュマロ・テストという実験でした。
4才の子供に対して、マシュマロの皿を与え、「15分待てたらマシュマロを もう1つあげるが、待てなかったらマシュマロは1つだけ」と告げて、ひとりき りにするのです。
その結果、実験を受けた多くの子供たちの中で、
辛抱して、2つ食べることができた子供は30%、これに対して 待てずに、1つだけしか食べられなかった子供は70%でした。
そして辛抱することのできた30%の子供たちの追跡調査は今も行われており 彼らは、大学への進学率が高く、収入も多く、健康的な生活を送っており、離 婚率も低いというデータが得られました。
番組でも強調されていましたが、人生の勝者であるために、セルフ・コント ロール能力は、確かに大切ですね。
ボッティチェリという人は、間違いなく、1つしか食べられなかったくちで しょう。彼はその生涯の最後において幸福だったとはいえません。
しかし、多くの賞賛を得て、歴史に名を残したという意味では成功者です。
ラファエロ、カラヴァッジオ、陳洪綬、ゴーギャン、ゴッホ、ロートレッ ク、モディリアーニ、パスキン、岸田劉生、長谷川利行、ゴーキー、バスキア ……将来もめんめんと続くであろう破滅的な画家の系譜。
皮肉なことに、彼らは天才画家と呼ぶにふさわしい作品を残しています。
盛期ルネサンスからマニエリスムの時代へ、流行が移り変わろうとする1530 年頃、アルプスのこちら側と向こう側で二人の偉大な肖像画家が登場します。
ドイツのハンス・ホルバインと、フィレンツェのアニョロ・ブロンツィーノ です。彼らもたくさんの宗教画や神話画を残していますが、肖像画という分野 においては最初の専門家の一人だったといえるでしょう。
二人とも北方的な細密表現を特色にしたリアリズムの画家です。
次号では、まずブロンツィーノ作「エレオノーラ・ディ・トレドの肖像」を 取り上げます。
彼は、フィレンツェの権力が、メディチ家の本家から分家へと移行する時代 に、両家から肖像画の注文を受けていた画家した。
新しい権力者コジモ1世は、ブロンツィーノを宮廷画家として迎え、妻エレ オノーラの肖像画を描かせました。その優雅であると同時に、冷たく厳格な表 現は、ボッティチェリの優雅さとは対極に位置するものです。
次回「エレオノーラ・ディ・トレドの肖像」を何卒ご購読のほどよろしくお願 いたします。
【まぐまぐ!】『時空を超えて~歴代肖像画1千年』発行周期:不定期
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