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【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年
信長、信玄、家康、モーツァルト…古今東西の肖像画辞典!
   
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 【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年          No.0010

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                          2007年03月31日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、
ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と
一緒に読み解いてみませんか?


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――□
【1】 徳川家康の肖像画(徳川美術館)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主・徳川家康について
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告
【7】 編集後記
□――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】徳川家康の肖像画(徳川美術館)━━━━━━━━━━━━━━━◆

 今回お届けする肖像は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」と呼ばれるものです。

 あの武田信玄最晩年の戦に大敗した直後の家康が、生涯の戒めとするために
恐怖に引きつった姿そのままを描かせたという珍しいタイプの肖像画です。
 用心深い家康としては、唯一ともいえる生前の絵姿(寿像)でした。

★★★徳川家康の肖像画(徳川美術館)はこちら
⇒⇒⇒ https://www.shouzou.com/mag/p10.html


◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名: 徳川家康三方ヶ原戦役画像
作者名: 不詳
材  質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸  法: 37.7×21.8cm
制作年: 1572年
所在地: 徳川美術館(名古屋市東区)
注文者: 徳川家康本人
意  味: 生前に描かれた寿像。
31歳の家康が、武田信玄との戦に大敗した直後の自らの姿を描かせて生涯の戒
めとした。


◆【3】像主・徳川家康(1542-1616)について ━━━━━━━━━━━◆

 江戸徳川幕府・初代将軍。その勇猛は「海道一の弓取り」とうたわれた。

 三河・岡崎城主・松平広忠の嫡男。
 母は三河・刈谷城主・水野忠政の娘、於大の方。

 幼名竹千代、元服して元信、16歳で結婚して元康、21歳で家康を名乗る。

 3歳で生母と生き別れ、6歳で織田信秀、次いで今川義元の元で、12年間の
人質生活を送った。

 その間、父が殺され、岡崎城を今川氏が占領。家康と三河の家臣団は、戦の
たびに今川氏の先鋒として駆り出されるという辛酸をなめた。

 1560年、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死したため、これをきっか
けに岡崎城に戻った家康は19歳で独立し、1562年信長と同盟を結ぶ。

 1564年には一向一揆を鎮圧し、ついに三河を平定。

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 1568年には武田信玄としめし合わせて、東西より今川領へ侵攻。遠江一円を
領土とした。1570年には三河・岡崎から遠江・浜松へ本拠地を移す。

 同年、信長とともに姉川の合戦に朝倉義景・浅井長政連合軍を破る。
このとき家康は信長に対して先鋒を願い出ると、朝倉勢1万5千を、わずか5
千の手勢で打ち破った。

 1573年の三方ヶ原の戦いでは武田信玄に敗れたが、1575年の長篠の戦いで織
田・徳川同盟軍は、武田勝頼を破り、1582年武田家を滅亡させた。


 このときのエピソードがひとつ伝わっている。

 念願の武田征伐がかなった上機嫌の織田信長は、家康に富士見を所望した。

 大井川からは富士の絶景が望めるが、ここにはまだ戦略上の理由から橋が掛
かっていなかった。

 家康は、信長のために輿を用意したのだが、川の流れが急で安定しない。

 その流れを緩やかに変えるため、家康は数百人の人足を雇って、川の中に首
までつかる彼らを数珠つなぎにして立たせたのである。

 その向こうには、雄大な富士が見えた。

 いかにも泥臭い家康式の演出に信長は、感嘆することしきりだったという。


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 家康は、本能寺の変以後、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領土と
した。1584年の小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉を破ったのち講和する。

 1590年の豊臣秀吉による小田原征伐には先鋒として従軍、戦後北条氏の旧領
関東に国替えを命ぜられた。1592年から98年にかけての秀吉の朝鮮出兵には参
加せず、もっぱら江戸で実力を養った。

 豊臣の下に甘んじること14年めの1598年、ついに秀吉が死去する。

 家康は着々と権力基盤を固め、諸大名を取り込むと、1600年関が原の戦いで
石田三成率いる反家康連合軍を撃破した。このとき59歳。

 征夷大将軍に任ぜられ、1603年に江戸幕府を開く。

 1605年には早々と将軍職を三男・秀忠に譲り、世襲制を宣言。以後は大御所
として実権を握った。

 その後、火種となることが明らかな秀吉の遺児・豊臣秀頼を除くべく、盛ん
に兆発し、1614年の大坂冬の陣、15年の夏の陣で豊臣家を滅亡させた。

 1616年4月17日死去。享年75。


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天下人信長・秀吉・家康の性格を皮肉った川柳に

 鳴かぬなら殺してしまえ不如帰(信長)
 鳴かぬなら鳴かしてみせよう不如帰(秀吉)
 鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰(家康)

が有名である。

 しかし、実は家康は、信長に勝るとも劣らぬ短気の性であった。

 これは、祖父・清康(1511-35)、父・広忠(1529-46)譲りのものであり、
いずれも謀殺されている。この血は、家康の嫡男・信康(1559-79)にも受け
継がれた。軍事に有能だった信康も、信長に疑われて切腹させられている。

 顧みれば、家康はその一生において、何度死地を脱したことであろう。不幸
な境遇に鍛えられ、忠義深い家臣に助けられ、強大な敵に挑み、死地を脱する
たび家康は学習したのである。

 ここで紹介する彼の遺訓は、生涯をかけた学びの総決算である。

  『徳川家康公遺訓』
 人の一生は重荷を負うて遠き
 道を行くが如し急ぐべからず不自
 由を常と思えば不足なし心に望み
 起らば困窮したときを思い出すべし
 堪忍は無事長久の基怒りは敵と思え
 勝つ事許り知りて負くる事を知らざれば
 害その身に至る己を責めて人を責むるな
 及ばざるは過ぎたるより勝れり


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 残念ながら、絵師については何も伝わってはいない。

 浜松城は、今川義元の時代には、曳馬城と呼ばれた小城であり、代々今川家
の重臣・飯尾氏が主だった。しかし、飯尾連竜が家康と内通した罪で、1563年
に義元の嫡男・氏実に滅ぼされたのちは、江馬氏が城代となった。

 1568年の遠江攻略によって家康が占領したのちは、配下の武将・酒井忠次が
主となる。1570年には、自らの居城・三河岡崎城を嫡男・信康に与えた家康自
身が曳馬城に入った。

 足利将軍家と縁の深い今川家に、土佐派の絵師がいたとしてもおかしくはな
いが、駿府から離れた飯尾氏時代の小城に土佐派絵師がいたとは考えにくい。

 また、画風から推定しても、陰影深い大和絵肖像画を描いた土佐派の画系と
は異なるようだ。

 この絵が描かれた1572年の暮れは、徳川家康が織田信長と軍事同盟を結んで
11年めであることから、やはり当時、一代勢力を誇った狩野派絵師の傍流が、
三河にも来ていたと考えてよいかもしれない。

 この家康像は、くっきりした漢画系統の画風であるから、この意味からも狩
野派の線はありえないわけではないが、まあ、当て推量はこのくらいにしてお
くべきか。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 1572年10月3日、織田信長打倒のため上洛を目指す武田信玄が、大軍を率い
て躑躅ヶ崎の館を出発した。

 遠江に入った武田軍は各所で徳川軍を敗走させた。
秋山信友率いる別動隊は、11月14日、織田領・東美濃の岩村城を落とす。

 信玄の本隊は11月下旬、徳川家康の前衛となる二俣城を占領。12月21日まで
この城に滞在した。翌22日早朝出発。秋葉街道を西へ進む。その数2万5千。

 迎え撃つ徳川軍は、1万2千。家康は、浜松城で籠城の作戦で、悲壮な決意
のうちに武田軍の来襲を待った。そのうち3千の援軍を送った織田信長も家康
に対して、決して城を出るなと忠告をよこしていた。

 ところが、武田軍は浜松城まで3kmまで達したとき進路を西へ変えた。浜松
城攻略の意図がなく、野戦に誘う作戦であることは明らかであった。

 このとき家康は、見過ごしては三河武士の名折れとばかりに、打って出る。

 老臣たちは無謀であると必死になってとめたが、彼は意地を通した。地の利
のある徳川軍には武田軍に大打撃を与えられる目論見があった。

 このとき、武田信玄53歳。徳川家康は31歳である。


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 家康は武田軍が三方ヶ原の祝田の坂を降り始めたという情報を得る。

 チャンス到来である。出撃したのは午後2〜3時頃。
全軍1万2千に鶴翼の戦闘隊形をとらせた。

 信玄は物見の知らせで、徳川兵力が十分ではないことを知り、中央突破に適
した魚鱗の形に配備させた。

 この陣形を確認した家康の物見・鳥居信元が進言した。

 敵の備えが堅固なため攻勢に出ることは避け、刑部(おさかべ)の地に達す
るまでやり過ごし、背後から急襲すべきである、と。
 
 しかし、家康はこれを退け、進撃を開始した。戦闘が始まったのは夕刻の5
時前後、すでにあたりは薄暗くなっていた。

 武田の先鋒は小山田信茂、次鋒に武田勝頼、山県昌景、馬場信房。激戦の最
中信玄は、一隊に徳川軍の側面を攻撃させ、全軍に総攻撃を命令した。

 2時間後、戦いは徳川軍の完敗に終わる。

 夏目吉信(夏目漱石の祖先)ら家康の家臣たちは、大音声で家康を名乗り、
身代わりとなって武田勢に飛び込んでいく。その間に家康がかろうじて逃げ延
びるという惨憺たる敗戦であった。

 迫り来る赤備えの山県昌景隊の猛攻に、馬上の家康は、恐怖で脱糞したと伝
わっている。

 7km 離れた浜松城に命からがらたどり着いた家康は、大かがり火をたいて
太鼓を叩かせ、城門を真一文字に開け放つ。追撃してきた山県昌景と馬場信房
の兵は、これを見て計略とおそれ引き揚げていった。

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 危機が去ると、家康は絵師を呼ばせた。それは敗軍の将たる己の、恥ずべき
姿を画布に残すためであった。

 出来上がったのが「徳川家康三方ヶ原戦役画像」として有名なこの肖像画で
ある。そのしかめ面から、別名「顰(しかみ)像」とも呼ばれている。

 鎧直垂(ひたたれ)、小具足(こぐそく)姿の家康は、ねじれた烏帽子を被
り、三本足の円形の椅子に座している。

 左腕だけに籠手(こて)と肩当を付けているのは、弓手をかばうためだ。
右腕に防具を付けず袖を絞った直垂を露出させているのは、太刀や矢扱う動き
を妨げないためである。

 手には弓懸(手袋)。絞った袴の裾には脛当(すねあて)、足には草鞋。腰
には太刀と脇差。つまり戦場から帰ったままの軍装である。

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 家康の表情を見よう。そのまなざしには眼前の絵師が、まったく映ってはい
ない。彼が見ているのは、今しがた終えたばかりの戦である。

 家康は下唇を上の歯できつく噛んだまま、目をひんむいている。

 彼の目には、自ら下した無謀な決断と戦術、これと全く対称的に完璧な信玄
の陽動作戦、立ち現れる阿修羅のような武田の兵、つぎつぎ倒れる家臣団、九
死に一生を得た瞬間、等々が走馬灯のように見えていたに違いない。

 いかにすべきだったか!いかにすべきだったか!

 死ぬほど疲れてはいるだろうが憔悴し切った表情ではない。ここには、一途
に考え込んでいる男の姿がある。

 左肘を膝についての頬づえ。その左足は右膝に乗せ、右手で支えるという、
ロダンの「考える人」に匹敵するポーズであるが、まさにこれは「考える人」
の肖像なのである。

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 表面だけ見れば、滑稽極まりない絵だ。

 しかし、広間に腰掛ける家康の周囲には何も描かれていないにも関わらず、
画面は見る人を退屈させない。

 腕、足、太刀、脇差、椅子、白い文様が目をつぎつぎ誘導するのである。

 絵師の筆はただ、眼前の家康を追いかけているだけに違いないのだが、その
画面構成の巧みさはセザンヌの人物像にも比せられよう。

 これだけの絵を12月22日に描き上げたわけでは、決してない。家康の面前で
は、和紙の上に墨でデッサンをし、色彩のメモ描きを取ったにすぎず、後日、
絹貼りし、礬砂引きした画面の上にじっくり描画してできたものである。

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 家康はこのあと湯漬けをかき込み、大いびきで眠った。

 その夜、犀ヶ崖で野営する武田軍に向かって、家康配下の大久保忠世らが夜
襲を敢行し、一矢報いたという。

 敗れたとはいえ家康が、鬼神の如き武田信玄の軍団2万5千に対してとった
行動は、後々の彼の評価を高いものとした。信長も秀吉も諸国の大名も、家康
に一目置いたのである。

 10年ののち、武田氏が滅亡したあとも、家康の心の中には、信玄に対する畏
敬の念の消えることはなかった。彼は、武田の遺臣を積極的に登用したため、
徳川に忠誠を誓った者の数は、895名を数える。

 家康はこの画像を生涯の戒めとして座右から離さなかった。


◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 次回は、豊臣秀吉の肖像を取り上げます。


◆【7】編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 徳川家康の生前に描かれた寿像といえるものは、今回の作品以外に見つかっ
ておりません。

 あの狩野永徳の孫・狩野探幽守信(1602-74)の描いた徳川家康像は数多く
残っているのですが、家康の死後に描かれた追慕像ばかりなのです。

 つまり、家康の没年に15歳だった探幽が、数10年後に描いた作品なのであっ
て、家康の姿をしのぶには取るに足らないものといわざるを得ません。
探幽は手抜きが実に多く、作品の評価の分かれる絵師でした。

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 一方、肖像彫刻(木像)には佳品があります。中でも、三河・大樹寺
(岡崎市鴨田町)に伝わる家康73歳の像は秀逸です。高さが50cmほどの小品で
すが、まさに家康を眼前に見るような迫力があります。

 この寺は家康にとって特別の場所でした。1540年の桶狭間の戦いのとき、
今川義元の先陣を務めた家康(当時、松平元康19歳)は、義元が討たれたのち
大樹寺で織田軍の追っ手に囲まれ自害しようとしたのです。

 このとき大樹寺の住職・登誉上人は、家康に対して「厭離穢土欣求浄土」こ
そが使命であると説いて、その死を翻意させ、織田軍に対しては、寺僧の祖洞
和尚が七十人力を振るって退散させました。

 家康はこの恩を厚く謝し、深く帰依しました。彼はこれ以後、「厭離穢土
欣求浄土」の八文字を徳川の軍旗にしています。このような寺に伝わる家康
73歳の像は、おそらく生身の姿を彫らせたものだと考えられます。

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 いずれにせよ、家康は、木像の場合とは異なり、簡単に持ち運べて写しも作
りやすい画像を、積極的に描かせなかったということはいえそうです。暗殺を
怖れるその用心深さも、彼は天下一品でした。

 筆者は戦国武将の中で、徳川家康を最も評価していますが、ほかに彼を彷彿
とさせる肖像画が見つからない以上、一旦ここで筆を置こうと思います。

 次回「豊臣秀吉の肖像」を何卒ご購読のほど、よろしくお願いいたします。


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