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【肖像ドットコム】時空を超えて〜歴代肖像画1千年
信長、信玄、家康、モーツァルト…古今東西の肖像画辞典!
   
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 【肖像ドットコム】 時空を超えて〜歴代肖像画1千年       創刊号No.0001

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                          2006年12月18日発行

★★★歴史上の人物に会いたい!⇒⇒⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。
そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、モーツァルト、ベートーベン、
ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を紀元2千年の肖像画家と
一緒に読み解いてみませんか?


□≪今週の内容≫―――――――――――――――――――□
【1】 織田信長の肖像画(総見寺)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主・信長と安土城について 
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 
【6】 次号予告
【7】 編集後記
□――――――――――――――――――――――――――□


◆【1】織田信長の肖像画(総見寺)━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 前回は、狩野宗秀作の手になる信長像を取り上げた。この創刊号では、宗秀
の兄・狩野永徳の手になる肖像画について語りたい。

 永徳の名声はあまりにも有名だが、現存する作品は少なく、残念ながら信長
の肖像画も失われてしまっている。そのため、その幻の絵画が実在していた頃
に描かれた模写によって、在りし日の姿をしのびたいと思う。

★★★織田信長肖像画(総見寺蔵)はこちら
⇒⇒⇒ https://www.shouzou.com/mag/p1.html


◆【2】肖像画データファイル━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

作品名: 織田信長の肖像
作者名: 狩野常信
材  質: 紙本著色(日本画・軸装)
寸  法: 115.3×44.4 cm
制作年: 1694年
所在地: 尾張・総見寺(愛知県名古屋市中区)
注文者: 織田貞置
意  味: 江戸時代 御用絵師狩野常信(1636-1713)は、高家(幕府の儀式礼拝
を司る家)の 織田貞置(1617-1705;信長孫)より、故織田信長の肖像画の注
文を受けた。彼は曽祖父、狩野永徳(1543-90)が 信長の生前に描いた肖像画
(寿像)を模写し、総見寺に納めた。


◆【3】像主・織田信長(1534−1582)と安土城について━━━━━━━◆

 信長が初めて安土城の構想を持ったのは不惑を越えた頃だろうか。

 天正元年(1573年)足利義昭を追い 室町幕府を滅亡させた信長は、天正3年
武田軍を三河長篠の戦いで撃破し、越前の一向一揆を鎮圧したが、まだ北に上
杉謙信、西に石山本願寺、中国に毛利が控えているという状況下にあった。

 同年11月、朝廷から大納言・右大将の任官を受けた信長は、嫡子信忠に家督
と岐阜城を譲り渡している。

 明けて 天正4年(1576年)正月、琵琶湖の東岸安土山の上に壮大な城の建設
が始まった。


 城普請役は丹羽長秀。 2月になるとただちに本丸の築城がなり、早速信長は
移り住む。4月、石垣そして天守閣の建立が着工する。

 石垣普請には石工・坂本穴太、天主普請には熱田大工岡部又右衛門、屋根瓦
作りは、唐人・一観をあたらせた。 

 諸国から集められた数千の侍・大工・職人たちが働く様は、昼夜、山も谷も
動くがごとくであったという。

 11月には天守閣の輪郭が完成。天正7年(1579年)5月に城は竣工した。高さ
46メートル、安土山と併せれば 湖面から158メートルになる。信長は天主を居
館とした。

 4世紀のちの 1971年、東京新宿に最初に建てられた高層ビル・京王プラザホ
テルが 165メートルだったというから、当時この高さを一人で独占していた信
長は、天上の神を自覚したというのもうなずける。

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 このような巨大な天守閣はかつてなかったものである。

 その構造は、外部五層・内部七重で、底面が不等辺八角形。

 地下一階から三階までが吹抜けで、中空にせり出した吊舞台を設け、その下
部には多宝塔が鎮座する。六階に八角形の朱塗りの望楼を設け、最上階は総金
箔貼りだった。


 内部の装飾絵画については、太田牛一が『信長公記』に書き残している。

一重目 土蔵のため絵は無し。

二重目 床は漆黒。絵の周囲は金で全て縁取り。

    西十二畳敷『墨絵に梅』、書院『遠寺晩鐘図』、
    次四畳敷棚『鳩図』、十二畳敷『鵞鳥図』、次八畳敷奥四畳敷『雉の
    子を愛する図』、南十二畳『唐の儒者達』

三重目 十二畳敷『花鳥図』、四畳敷『花鳥図』、
    南八畳賢人の間『瓢箪より駒の図』、八畳敷『呂洞賓(実在の神仙)
    と仙人の図』、北二十畳敷『牧の駒図』、
    次十二畳敷『西王母(不死薬を持つ仙女)図』

四重目 西十二間『岩の間、岩に木々』、西八畳敷『龍虎之戦図』、
    南十二間『竹の間;竹色々』、次十二間『松の間;松の根色々』、
    東八畳敷『桐に鳳凰図』、

    次八畳敷『許由・巣父及び故郷の図』(きょゆう・そうほ;皇帝より
    天下を譲ると言われた許由は滝の水で耳を洗い、そこへやってきた巣
    父はけがれた水を牛に飲ませられぬと立ち去った)、

    十二畳敷の内西二間『手まり図』、次八畳敷『庭子の図』『鷹の間』

五重目 絵は無し。

六重目 外柱朱色、内柱金。

    『釈迦十大弟子』、『釈迦成道説法の図』、縁輪『餓鬼と鬼の図』、
    縁輪のはた板『鯱(しゃちほこ)と飛龍の図』、

    高欄・擬宝珠(こうらん・ぎぼうし;手摺と柱頭飾り)彫り物。

七重目 三間四方座敷内金。外側金。

    四方の内柱『昇り龍と降り龍の図』、

    天井『天人影向(来臨)の図』、座敷内『三皇五帝』『孔門十哲』
    『商山四皓(しょうざんしこう;漢の時代世を捨て商山に隠れた四人
    の老人)の図』『七賢人の図』、

    狭間戸漆黒。座敷内外内柱漆黒。

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 画題は、日本的美意識と、道教・仏教・儒教思想が混然一体となっている。
最上階の絵画群からは、信長が儒教思想に最も重きを置いていたことが読み取
れる。

 また『公記』には、城内の御殿装飾についても言及があり、三国名所の濃絵
(だみえ;彩色画)が描かれていたことが分かっている。

 ひとつひとつ書き写していると、まさに豪華絢爛というほかはない。さらに
信長愛蔵の茶器の名を加えれば壮大なリストとなるだろう。

 信長はこのように芸術作品に囲まれて暮らしていたが、この城は、同時に他
者に見せるためのものという透徹した意思に貫かれていた。

 それは現代の富豪たちが、美術品のコレクションを誇る姿と重なる。自分は
このような一流の芸術の理解者であり、推進者なのだ、と。


◆【4】肖像画の作者について━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 安土城の内部装飾に際して、天下一の絵師として狩野派一門を率い、これら
の障壁画制作を一手に引き受けたのが狩野家第4代 永徳洲信(くにのぶ;1543
-90)だった。

 永徳は、初代狩野祐勢正信(1434-1530)の曾孫であり、祖父は2代永仙元信
(1476-1559)、父は3代 松栄直信(1519-1592)である。

 彼が織田信長と出会ったのは天正の初め頃だろうか。

 天正2年6月、信長は上杉謙信に対して武田勝頼を挟撃する企てをつづった手
紙と一緒に、永徳の手になる『洛中洛外図屏風』(1.6×3.64m;上杉家蔵)を
贈っている。

 足掛け5年を費やした安土城の障壁画制作が終わったとき、永徳は 信長から
300石の知行と小袖を賜った。子の右京光信(1565-1608)も覚えめでたく、世
評もさらに高まった。

 しかし、わずか3年後の天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こり、その
混乱の中、安土城は灰燼に帰す。落胆は大きかったろうが、永徳は感傷に浸る
間もなく、次の天下人豊臣秀吉に登用されることになってしまった。

 毛利攻めのため備中にあった秀吉は、本能寺の変報を聞くとそれを秘したま
ま、即座に毛利と講和し、明智光秀討伐のため京に取って返した。

 このとき和議の印として毛利輝元に贈ったのが、永徳の有名な『唐獅子図』
(2.22×4.52m;宮内庁蔵)だったという。


 翌1583年には秀吉による大坂城の普請が始まり、85年に竣工。86年には正親
町院仙洞御所普請、87年の聚楽第、88年の天瑞寺、90年の新内裏と駆り出され
た永徳は、一門挙げて大車輪の働きを余儀なくされた。

 この併せて20年近い天下人への奉仕は、天才絵師の寿命を縮めてしまった。
88年に一度病で伏したことがあったが、90年8月に倒れると最早 起き上がるこ
とはできなかった。享年48。

 安土城、大坂城、聚楽第の崩壊と共に、多くの永徳作品は失われた。現在、
日本美術に関心のある者は誰しも、永徳の失われた作品のことを思う。多くの
日本人が、信長の果せなかった天下統一に思いを寄せるように。

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 さて、今回取り上げた織田信長の肖像画は、永徳作品の 約100年後の模写で
あるから、こちらの作者も簡単に紹介したい。
       
 絵師の名は狩野家第7代 養朴常信(1636-1713)。

 嫡流ではないが仮に7代としておくと、永徳は 常信の曽祖父にあたり、祖父
が5代 右近孝信(1570-1618)、父が6代 主馬尚信(1607-50)となる。

 彼が生きたのは徳川第4代 家綱、と第5代 綱吉の時代だった。

 当時狩野家は、京狩野と江戸狩野に分かれ、幕府御用絵師は、江戸の中橋狩
野、鍛冶橋狩野、木挽町狩野の3家が務めていた。

 常信は父を継いで木挽町狩野の地位を確固たるものにした。父尚信の絵は、
線に意あり、余白に間あり、天賦の才が感じられるが、常信の絵は丹念ではあ
るけれど、様式的で小粒な印象がある。


◆【5】肖像画の内容━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 創刊準備号に掲載した有名な長興寺本と比べてみると、大変面白い。

 今回の総見寺本信長像は、随分痩せており、一見しょぼくれたオッサンの風
体である。姿勢はほとんど同じ。長興寺本において、宗秀が、信長の死の一年
後に描いた肖像の原図は、兄・永徳が描いたものだったといってよいだろう。

 永徳は、40才前後の生きた信長を見ながら描いた。

 宗秀は、それを手本としながらも、やや肉付きのよくなった晩年の信長の姿
を念頭に描いた。衣装はやや余所行きである。注文者を満足させるために、権
力の象徴である桐の紋章を入れる必要もあった。


 対する総見寺本をじっくりと眺めよう。いかにも普段着の風である。
信長は無心である。表情はない。いかにもくつろいでいる。

 天下一の絵師・永徳に全幅の信頼を置いて、じっとしている。

 「絵に描かれるとは退屈なものよのぅ」といったつぶやきが聞こえるようで
はないか。

 この痩せた信長は、馬面である。後に、宣教師ルイス・フロイスは、信長が
中背で痩身だったと書いているが、イメージはぴったりくる。

 この失われた永徳の原本が描かれた年号は、謙信に『洛中洛外図屏風』を
贈った天正2年6月に限りなく近い頃だと筆者は考えている。

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 ひとつ問題があった。総見寺本は およそ100年後に描かれた模写である。常
信が描いた当時永徳本が存在しており、これを模写した事実があるとはいえ、
どこまで原本に忠実か、という問題である。

 だが、幸いなことにもうひとつの永徳本の模写作品が、早稲田大学図書館
に残っていた。同じく江戸時代の私的な淡彩スケッチである。作者は不詳。

 この絵は、サイズは違うが、姿態容貌とも総見寺本とほとんど同じ。しかし
仔細に見ると、目じり、口元、鼻ひげ、さかやき、丸みのある肩衣と、少しず
つ異なっている。

 この違いは総見寺本を見ながら描いたものでなく、永徳の原本を直接見て描
いた故であろう。いわば、早稲田本と総見寺本は、腹違いの兄弟の関係にある
わけだ。

 そう考えると、常信の制作態度が見えてくる。

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 早稲田本は、情感の細やかな顔である。さらにくつろいだ風情である。この
絵は永徳の原本にかなり忠実である、と云い切れるような生々しいリアリティ
がある。機嫌のいいときの信長はかくやと思わせる。

 逆に云うと、画家の像主に対する共感が見えるのである。

 これに対して総見寺本は、いかにも常信らしい様式化が見られる。また、彼
には情感を消す必要があったかもしれない。おそらく織田家の子孫の要求。あ
まり優しい風情は顕彰の像としてふさわしくない、等々。


 天正初期の永徳による信長像をしのぶには、早稲田本と総見寺本の 2枚が欠
かせない。これらを合体させて彩色することにより、永徳作品は失われた姿を
取り戻すはずである。

 信長の信頼厚き狩野永徳は、くつろいだ好感情の信長像を描き得たのだ。

 肖像に引かれた一本の線がわずかに違うと、像主の印象は本当にがらりと変
わるものだ。これは肖像画家の最も苦心するところでもある。


◆【6】次号予告━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 次回は、山形県天童市の三宝寺に伝わる、宣教師が描いた写真のような織田
信長の肖像画に迫りたいと思います。


◆【7】編集後記━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

 ご購読ありがとうございます。寒くなりましたが、お変わりありませんか。
メルマガ創刊号で読者数が50名を超え、嬉しくやり甲斐を感じています。

 第10号までは週刊で発行する予定でいます。

 次号はキリスト教徒の絵ということで、師走はクリスマス・イブにお届けし
たいと思います。信長について考えることは大変面白く、興味は尽きません。
もう少し信長の肖像におつきあいください。

 というわけで、次回は12月24日(日)にお届いたします。
何卒ご購読のほど、よろしくお願いいたします。


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