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 これから5人の個性的な芸術家の生涯を取り上げたいと思います。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ  1890年7月29日 37才
ジュール・パスキン      1930年6月2日 45才
エルンスト・R・キルヒナー  1938年6月15日 58才
アーシル・ゴーキー      1948年7月21日 44才
ニコラ・ド・スタール      1955年3月16日 41才

 私が彼らの芸術家としての苦闘を語る前に、ロシア系ユダヤ人作家、イリヤ・エレンブルグの著書『芸術家の運命』のパスキンの章から、結びの部分を引用します。

 晩年のパスキンには、経済的な不自由はなかった。批評家も、画商も、出版業者も、みんな頭を低くして パスキンを訪ねてきた。自殺したときは四十五歳だったから、まだまだ先は長かった筈である。恐らくは抵抗力がなくなったところへ、 過去の不幸や心の痛手が重なって現われたことが、自殺の原因だろうか。しかし、問題はそれだけではない。

 かつてパステルナークは、「血の通った詩は殺される」と言った。こう言ったとき、パステルナークはたぶん 真の芸術家にふりかかる宿命的な報復行為のことを考えていたのではなくて、単に詩とはなかなか思うようにいかない仕事だということを、 身にしみて感じていただけなのだろう。

 どんな連盟や協会にいくつ加盟していたところで、鋭い感受性がなければ芸術家というものはあり得ない。 平凡なことばが人の心を動かすためには、カンバスや石材に命がかようためには、息づかいが、情熱が必要なのである。すなわち、 芸術家は早く燃えつきる。なぜなら、かれは二人分の生活をしているからだ。創作生活のほかに、かれには世間の人間に勝るとも劣らぬ 毛むくじゃらの生活、錯綜した生活があるのである。

 「健康に有害な産業部門」という法律上の概念がある。つまり、健康に有害な労働にたずさわる労働者には、 特別な衣料やミルクが与えられ、労働時間も短いのである。芸術もまた「健康に有害な産業部門」だが、詩人や画家を護ろうとするものは 一人もいない。そればかりか、職業の性格からして、ちょっとした擦過傷が命とりになり得るという事実を、だれもが忘れている。

 そして、長い列をつくって墓穴の前を通りすぎ、花を投げる……



パスキンの肖像

ジュール・パスキン ジュール・パスキンはセファルダンであった、と英語の年譜には一言書かれていました。セファルダン(Sephardin)とは、スペインから追われたユダヤ人の子孫で、フランスやイタリアやバルカン諸国に住みついた人々を指すのですが、欧米ではよく知られた言葉なのでしょう。

 イリヤ・エレンブルグ(1891-1967)は、パスキン(1885−1930)とも、モディリアーニ(1884-1920)とも交友があり、同じセファルダンであった二人は出会う機会はなかったけれども、お互いに性格や雰囲気がよく似ていたと記しています。二人とも描く対称は女性が中心でしたし、ボヘミアンだった彼ら二人の写真を見ても、どこか虚無を秘めたその眼差しは確かに似ている気がします。

 しかし、ほぼ同時期にモンマルトルやモンパルナスを徘徊していた画家パスキンとモディリアーニが出会わないはずはありません。エレンブルグは、モディリアーニの死の8年後、再びパリに戻ってきたパスキンと初めて出会ったので、二人に交友はなかったと書いてしまったと思われます。モディリアーニが生前唯一開いた個展の会場ベルト・ヴェイユは、パスキンを扱う画廊でしたし、アポリネールもその『芸術論』の中で、次のように書いて良き時代を彷彿とさせてくれます。

 

 「カフェ・ロトンドには、キスリングやマックス・ジャコブ、リベラ、フリエスなどの姿が見かけられる。カフェ・ドームにはバスレルやパスキンなどの常連がくつろいでいる。プティ・ナポリタンでは、ピエール・ロワやジョルジュ・デ・キリコ、そしてモディリアーニが一杯やっている。ヴェルサイユの店では、マルケが時の移りゆくままに腰をおろしている。こうしたカフェがモンパルナスのオアシスである。」

 

 パスキンは、そう、ボヘミアンであり、コスモポリタンでした。言い換えれば、無頼派であり、さまよえる画家でした。ざっとその一生をたどってみます。

 パスキンは、1885年3月31日にブルガリアのヴィディンで、本名ユリウス・モディカイ・ピンカスとして生を受けます。(ジュール・パスキンという名は、おそらくユダヤ人的な響きを持たないものに作り変えたのでしょう。) ブタペスト、ウィーン、ミュンヘン、ベルリンで修行時代を送ったパスキンは、ミュンヘンで挿絵画家として認められた後、1905年、二十歳でパリに出ます。
 パリを中心にした活動十年ののち、第一次大戦の徴兵を避けて、ニューヨークに渡り、テキサス、フロリダ、キューバ、ニューオーリンズに旅行。この地で結婚し、1920年にパリに戻ってからも、アルジェリア、チュニジア、イタリア、パレスチナ、カイロ、ニューヨーク、スペイン、ポルトガルへ旅行。たびたび開かれる個展では成功も勝ち得、創作活動も精力的でしたが、次第に体調を崩し、女性関係及び制作の苦労に神経をすり減らせ、1930年に自殺したのでした。

 旅に生きる人生とは苛酷な人生でもあります。

 旅に生きた人で長命だった人はいません。加えて彼は浪費家であり、夜毎の乱痴気騒ぎを好み、飲酒癖はアル中にまで発展しましたが、私の見る限り、一生を通して仕事の質も落としていないパスキンが、心身のバランスを崩さないわけがありませんでした。

 

*        *        *        *        *

 

座っている女たち

 マルセル、クラウディン、アンドリー、ヘンリエッタ、マドー、クローデア、ミシナ、キキ、クララ、ポーレット、アイシャ、ルース、リディス、シモーネ、ジュヌヴィエーヴ、ヒルダ、マリアンヌ、ジャネット、エレーヌ……

 パスキンは、多くのモデルに囲まれて生きて、たった一人で死んでいきましたけど、私には、彼が日本の無頼派の小説家太宰治にもよく似ているように思われます。若い頃の肖像写真を見ると、ポーズだけでなく、顔つきまで酷似しています。そうして、太宰における山崎富栄のように、ルーシー・クローグはパスキンにとって運命の人でした。

 

【二人の女性との出会い】 パスキンの正妻は、エルミーヌ・ダヴィッド(1886-1970)という画家で、二人は1907年、友人のアトリエで出会っています。当時パリの国立芸大(エコール・デ・ボザール)に通う女子学生だったエルミーヌとは、まもなくモンマルトルのアトリエで暮らすようになります。パスキン23才でした。7年後、徴兵を避けてニューヨークに逃避行するときエルミーヌを伴っており、さらに4年後、二人はかの地で結婚し、アメリカ国籍も取得しています。

 エルミーヌの絵は写真で見ただけですが、一流とはいえないまでも決して悪い絵ではありませんでした。ピカソにおけるフランソワ-ズのごとく、巨人の影に隠れがちですけど、しっかりとした個性を持ちあわせた自立した女性でした。

 一方のパスキンの愛人だったルーシーとは、1911年にパリで出会っています。本名をルーシー・ヴィダルといい、やはり画学生でした。このときエルミーヌのときと同様、ルーシーもパスキンのモデルをつとめています。

毛皮を巻いたルーシー

 1914年にパリを離れたパスキンがルーシーと再会するのは、エルミーヌと共にニューヨークから戻ってきてしばらくのことでした。そのときルーシーは、パスキンの友人のノルウェー人画家、ペール・クローグ(1889-1965)の妻となっていました。ルーシーには画才はなかったけれど、情熱的な可愛い女だったらしく、浮気の絶えない夫クローグとはたまたま別居していたために、パスキンとルーシーの恋は一気に燃え上がったようです。

 聡明な正妻エルミーヌは、二人の仲をいち早く察知し、パスキンをルーシーにあずけるつもりになっていました。しかし、何度もパスキンと二人きりの旅行をしながらも、ルーシーに夫と子供を捨て去る覚悟はなく、パスキンは次第に心の安定を欠くようになっていたようです。エコール・ド・パリの日本人画家フジタの妻ユキは書いています。

 

 「パスキンは生涯でただ一人の女しか愛さなかった。その女はルーシー・クローグである。このように強烈な愛は特記するに値するほど稀なものである」と。

 

【その死と女性たち】 パスキンは、長年の過度の飲酒と不節制、生来の旅行癖のため、心臓と肝臓はひどくむしばまれていましたが、連夜の馬鹿騒ぎを止めようとはせず、パーティーの資金稼ぎのために画商好みの作品を乱作し続けました。そして、「人間は、とりわけ芸術家は、45才以上生きていることはない。――それまでにベストをつくせなかったとしても、その後になって、名声を高める程のものをうみ出すということはないだろう」というのが口癖でした。

 弱った心と体が、自分独自の表現を追い求める内部の葛藤と、画商の営利主義、三角関係による煩悶に耐え切れなくなり、また数年来の自殺願望もあったのでしょう。

 「もうぼくは何もできない。もう十分に働いた」――友人には遺書めいたものも書き送っています。

 

 1930年5月、すでにエルミーヌと別居していたパスキンは、ひとりきりで、大きな個展のための制作にうち込んでいました。カフェでパスキンの姿を見かける者はなく、ルーシーへの便りも途だえていました。

 6月2日、まさに個展の前日、パスキンは自殺を決行しました。浴槽で手首を切り、血文字で壁に「許してくれ、ルーシー」と書き残すと、ドアノブにひもをかけました。そして座ってドアにもたれた姿勢のまま、首を吊ったのです。おそらく大量のアルコールを飲んでいたと思われます。

パスキンが発見されたのは死後3日めのこと、第一発見者は、錠前屋に鍵をこじあけさせたルーシーでした。

 パスキンは、――いや、モディリアーニも、太宰も、その他大勢の若くして命を落とした作家たちも、ことごとく生活人であることができず、皆、芸術家という生きものをデスパレートに演じ続けたのでした。

 

エルミーヌ・ダヴィッドの肖像

 パスキンの人生に深くかかわった二人の女性、エルミーヌとルーシーの仲は、パスキンの生前も死後も良好だったようです。遺産相続人にも二人が指名されましたが、正妻エルミーヌは、残された全作品をルーシーに譲り、1970年に天寿を全うするまで創作活動を続けました。

 一方のルーシーは、翌1931年、パリにルーシー・クローグ画廊をオープンし、1976年ごろになくなるまで、パスキンの絵を展示していました。ルーシーの夫、ペール・クローグは、妻ルーシーを愛した友人パスキンの死の2年後、モンパルナスと訣別し、故国ノルウェーに戻ったといいます。

(00/02/03)


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