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ゴッホの肖像

 フィンセント・ファン・ゴッホ(1853−1890)の37年という短い生涯は、すべての芸術家たちの中で最もドラマチックなものです。ピカソ、シャガールのように90年以上生きた画家であっても、頽廃とスキャンダルの渦中に短い生を終えたモディリアーニやエゴン・シーレ、ウォーホルのような画家であっても、ゴッホの生涯の起伏に比べたら、退屈なものでしかありません。それは自らの思想に殉じた生涯であり、彼の一生のどの場面を切り取ってもドラマになり得ます。

 思い返すと学生時代、私が彼を狂人と呼んだことに対して、「ゴッホが狂人だったことは一度もないですよ」と憤慨した友人が、『ゴッホの手紙』全6巻を貸してくれたのが、ゴッホとの出会いでした。今でも私はあいかわらず「常軌を逸した人間」という認識のままであり、彼の病がその一生に及ぼした影響は大きいと考えていますが、それが彼の芸術を損なうものではありませんし、彼の芸術の重要性はもっともっと強調されていいものです。

 ゴッホの芸術とその死を語るにあたり、私はこの病気と彼の女性関係という観点から見ていきたいと思います。ゴッホにまつわる女性は6人あげることができます。

 

【最初の出会い】 ゴッホは死産だった同名の兄と、3人の妹、生涯変わらぬ支持者だった4つ年下のテオともう一人の弟に囲まれた7人兄弟の2番目でした。兄弟の中では、唯一彼だけが頑健な体を持っていたそうです。父は牧師で、伯父のうち3人が画商を営んでおり、ゴッホ自身も小さい頃から絵を好む少年でした。

 1869年、16才のときゴッホは伯父が共同出資するハーグの画廊、グーピル商会の店員になりました。彼は勤勉で有能な店員で、経営者の信頼も厚く、4年後ロンドンに転勤になるときには、素晴らしい推薦状をもらうほどでした。弟のテオも1872年、15才でブリュッセルのグーピル商会に就職しています。

 1873年ロンドンに移った20才のゴッホに最初の女性との出会いが訪れます。 8月に移った二つ目の下宿先の娘ウルスラ・ロワイエでした。ロワイエ家は託児所を開いており、彼女もこれを手伝っていました。ゴッホはここから会社に通い、仕事も順調でした。ロワイエ家でその年のクリスマスを祝い、74年の年明けには昇給します。この下宿での暮らしが1年にもなる頃、ゴッホはオランダに一時帰郷する折、初めてウルスラに愛を告白しました。しかし、彼女には婚約者がおり(ゴッホの前の下宿人でした)、彼の執拗な努力も空しく、失恋に終わります。この人生における最初のつまずきが、彼の性格を一変させました。ふさぎ込み、内省的かつ懐疑的で、仕事に情熱を持てない種類の人間になってしまったのです。

 会社で、「画商の仕事は組織的な窃盗だ」と公言するほどの変わりようでした。75年にパリに移動になりますが状況は変わらず、翌76年、23才のゴッホは解雇されました。ここから、彼は職を転々とし始めます。ロンドンの寄宿学校の教師、ドールトレフトの本屋の店員、やがて宗教に救いを見出した彼は、アムステルダムで神学校の受験勉強を始めますがこれも長続きせず、結局資格のいらない福音伝道者になりました。このころ、「ぼくとしては一生の間キリストの愛と彼のための仕事に努力したい」という言葉を手紙に書いています。

 

 1879年、場所はベルギー・ボリナージュの炭坑街。ここで彼はバイブル教室を持ち、子供を教え、病人を見舞いました。しかし、そのやり方は度を越えたもので、金も衣類もベッドも貧しい人に与え、みじめな小屋に閉じこもったのです。これは、到底教会の認めるところとはならず、試用期間が終わると解任されました。この後もボリナージュに留まるのですが、たびかさなる挫折の中で、素描を始め、彼はこれを天職だと感じるようになりました。ゴッホは1880年7月テオへの手紙に書いています。

 

 「ぼくの苦悶はただ一つ、―どうしたら自分が何か善いことのできる人間になれるか、何らかの目的に貢献する人に、何かの役に立つ人間になれないものだろうか、どうしたら一定の問題をもっと長い間、深く極める事ができつようになるか、―このことなのだよ、絶えずぼくを苦しめているのは。」

 「きみがぼくに50フラン送ってくれたことはエッテンで知った。ともかく受け取ったよ。確かに、心ならずも、確かに、かなり憂鬱な気持ちで。だが、ぼくは一種の袋小路に追い詰められているのだ、石の壁に突き当たっているのだ。受け取るよりほかに仕方がないではないか。」

 

 これ以後、自殺するまでの十年間、もはや実際的な職業に就くことはありませんでした。彼の生活は画商である弟のテオに全面的に頼ったものになりました。彼は、美術学校に入ることはせず、独自のやり方で絵を学習し始めました。

 

【従姉妹、そして娼婦と】 1881年、両親のいるエッテンに戻った彼に二つ目の出会いが訪れます。父の牧師館で一夏を過ごした従姉妹のケーでした。彼女は、4つの男の子を持つ未亡人でした。ゴッホは子供を可愛がり、二人の関係も暖かいものでしたが、彼女は愛を告白されたとき、真実のものとは考えられず、また、夫を失った悲しみから覚めやらないまま、それを受け入れることはできませんでした。実家に戻った彼女をゴッホは追いかけるのですが、会わせてはもらえませんでした。

 「このときの拒絶は、ゴッホの生涯の分岐点になりました。もし彼女が、彼の愛に応えたならば、それは、おそらく社会的職業を手に入れるよう、彼を駆りたてたことでしょう」とは、後年、テオの妻になった女性の言葉です。

 

 父との不和さえも生じた彼は、81年暮れから2年間、ハーグで暮らしました。ここで3度目の出会いがありました。いや、誰とでもよかったのかもしれません。ただがむしゃらに妻や子を望んだ彼は、身持ちの悪い子連れの妊婦(娼婦クリスティン;シーン)と同棲を始めてしまうのです。彼女は、がさつで無教育であばた面の女。下品な口調で話し、意地が悪く、酒飲みで、煙草をふかし、過去の生活もまともではなく、ゴッホの友人は皆離れて行きましたが、彼は初めて得た家族に対して、愛情を持って接しました。最初のうちは、ゴッホのモデルを務めることもありました。

 しかし、自分が財政的に弟に頼りながら、一家族を背負い込むなどという行為は許されるものではありません。彼女自身もそんな状態で続けられるものとは考えていませんでしたので、ほぼ一年の同棲生活の後に別離に終わることになります。

 

 

【隣家の女性、そしてパリへ】 再び両親のもとへ戻った彼は、父の新しい任地ヌエネンで、84年の暮れから2年間過ごしました。4度目の出会いはこのときのことです。彼女は牧師館の隣りに住む三人姉妹の末っ子で、マルホット・ベーヘマンといいました。マルホットはゴッホよりずっと年上で、美しくもなければ、才女でもありませんでしたが、親切な心の持ち主でした。彼女の友情は次第に愛情に変わり、ゴッホもやがて結婚を考えるようになるのですが、彼女の家族の全面的な反対に合い、彼女は自殺を図ってしまうのです。それは未遂に終わりましたが、二人の関係は永久に破れてしまいました。

 ゴッホは、少しずつ立ち直ると、猛然と仕事に取り組み、この地で有名な農民のシリーズを残しています。このあとの短いアントワープ時代があり、モデル代に窮した彼は、アカデミーの生徒となりましたが、たびたび教師たちと衝突を起こし、放校処分になっています。

 

泥炭船と二人の人物 1986年春から2年間は、パリでブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)に勤める弟のテオの家に転がり込むことになりました。しかし、兄と一緒に暮らし続けていくこと、これは実に困難なことでした。テオが兄のためにいろいろ尽くしたことの中でも、おそらくこの2年間の同居生活に耐えたとき以上に、大きな犠牲を供した例もあるまい、と年譜にはあります。

けれども、テオは妹への手紙にこう記しています。

 

「彼をいつでも援助し続けているのはまずいことではなかろうかと、ぼくは何度となく自問した。そして、彼に自力でやってもらおうかと思ったこともいく度あるかもしれない。

しかし、同じように続けていくべきだと思う。彼は確かに芸術家だ。

やがて、彼の作品はおそらく崇高なものとなるだろう。もし、彼にまともな勉強ができないようなことをしたら、それは恥ずべき仕打ちだということになるだろう」と。

 

 パリ時代には、クリッシー通りのかなりいかがわしいキャバレー『タンブラン』の女経営者、アゴスティーナ・セガトーリがゴッホの愛人でした。このころ、彼はアブサンを飲むことをおぼえました。飲酒によって絵を描く際に必要とした興奮が得られたといいます。しかし、彼の乱暴さも、アルコールとは無縁ではありませんでした。ゴッホは健康を損ない、陰鬱なパリの気候にも我慢できなくなって、南フランスへの移住を決意します。

 

【耳切り事件】 1888年2月からアルルの明るい陽光の下での生活が始まりました。オランダ時代にはオランダ語、イギリス時代には英語で書かれていた手紙も、フランス語で書かれるようになっていました。89年の5月までのアルルでの生活で、彼の作品には、代表作『ひまわり』に見られるような強烈な色彩が顕著になります。

 ゴッホは、芸術家の共同体を作ろうという仕事に熱中し、パリで知り合ったゴーギャンを自宅に呼び寄せようと躍起になります。なかなか承知しないゴーギャンでしたが、有能な画商テオとの良好な関係を望んで、アルルにやって来ました。こうして二人の共同生活が始まりましたが、もちろんそれは、テオの援助なしでは成り立つはずのない生活でした。

 

 ゴッホという人はとうの昔から変人でしたが、その食生活は実にいい加減なものでした。キリストの忠実な信徒である彼は、自分を律するために、何も付けないパンを食するのが習慣でした。ドールトレフト時代に下宿で同居したことのある男が書いています。

 彼は肉を口にせず、ただ日曜だけ、それも下宿のおかみに長いこと勧められてからやっと少しだけ食べるといったふうでした。じゃがいも4つに肉汁少しばかり、野菜一口、これで彼のご馳走は終りでした。彼は「人間というものにとって身体的生活などはとるにたらぬ些細なものだ。菜食で十分なのであって、ほかのものはみんなぜいたくさ」と答えたものでした。

 ところが、パイプタバコには当時から異常に執着していました。これをぜいたくとは考えてはいなかったようです。食事をいい加減にしていたため、その空腹感と、脱力感を、喫煙と飲酒で紛らわせるという悪循環でした。後にテオでさえ、「君の病気の大半は、日常生活を余りなおざりにしたことによるのだ」と手紙に書いています。また、若く健康な男子には必要なのだと公言して、弟の送金を女郎買いにつぎ込み、性病にかかったりもしています。

 これは新印象主義の画家シニャックの証言です。

「彼はほとんど何も食べなかったが、飲むものの量はいつも多すぎた。一日を燃えるような太陽や炎熱の中に過ごして(制作して)帰ってきて、町には本当の家庭もないから、彼はカフェのテラスに腰をおろすのが常だった。アブサンとブランデーとが、代りばんこに立て続けに続いたものだった。ああなっては抗えるものではなかったろう。」

 生活費とは別に、画材を手配してくれるように弟に書いたアルルからの手紙を見たとき、私はふと、現在の金額に直すとどのくらいになるだろうかと思い、絵の具をひとつひとつチェックしたことがあるのですが、驚いたことに一度に請求した画材の代金は10万円を超えていました。まあ、あのような厚塗りですし、仕事を始めると一日一枚のペースですから、当然といえば当然かもしれませんが、つくづく、テオの苦労が思いやられます。

 

 さて、強烈な個性を持った二人の画家、ゴッホとゴーギャンの生活は早晩、破綻します。88年のクリスマス・イブの日、ゴーギャンはアルルを立ち去ることになるのですが、このときゴッホは有名な耳切り事件を起こします。逆上・錯乱したゴッホは、カミソリを手にゴーギャンを追いかけるのですが、果たせず、自宅に戻ると自分の耳を切り取り(正確には耳たぶでしたが)、売春宿の女に贈り物だと届けたのです。このとき、警察が介入し、約2週間ゴッホは入院生活を送ります。

 この初めての神経発作以来、ゴッホはたびたび発作に襲われるようになりました。平静なときには絵が描けるのですが、強い刺激や疲労があるとぶり返すのです。近所の住民もゴッホを狂人として危険視し始め、89年5月、結局、ゴッホは自らの意志で、サン・レミにある精神病院に入所することに決めました。

 

【事件のきっかけになった女性について】 この最初の発作は、精神病質をベースにした、心因性の発作と考えられています。つまり、好んで栄養失調状態だったゴッホが、常用していた質の悪い廉価なパイプタバコとアブサンによって、既に神経が冒されていたのに加え、長いこと希望していたゴーギャンとの共同生活が破れたことへのショックのほかに、もう一つ別の原因がありました。

 6番目の女性の登場です。けれどもそれは、もはや、恋愛事件ではありません。彼女は22才のオランダ人で、問題のクリスマス・イブの直前に、テオと婚約したばかりの、ヨハンナ・ヘシナ・ボンゲルという女性でした。

 ゴッホは、テオが所帯を持つことによって自分への送金が止められ、生活が脅かされることになると考えたのです。最愛の弟にも、親友ゴーギャンにも見放されるという恐怖が、強迫観念になって、逆上の引き金になりました。テオは生涯一度だって、送金の停止をほのめかしたりしたことはなかったのですけれども。

 この送金停止への恐怖との因果関係は、確かなことで、89年7月5日ヨハンナから妊娠したという手紙を受け取った翌日、野外制作中に発作を起こしていますし、90年1月31日の甥の誕生の前後、2回激しい発作を起こしています。自分の支持者である弟に子供が生まれれば、所帯を維持するのに出費が嵩む。そうなると、自分への援助は弟にとってひどい負担になるに違いない。もしかすると援助は打ち切られるかもしれない…。ゴッホはそんな恐怖におののいていたのでした。

 けれども、テオとヨハンナ夫妻は、そのようなことは全く考えてはいませんでした。兄を厄介者と思うどころか、自分たちに生まれた息子に対して、尊敬する兄の名を取って、フィンセント・ファン・ゴッホと全く同じ名を与えているのです。

赤い葡萄畑……生前に唯一売れた油絵と言われている。

 

 サン・レミの精神病院での生活は、ときどきぶり返す発作を除けば、単調な毎日でした。制作も順調に続けられましたが、一年もたった頃、自ら望んで入った生活とはいえ、こんな環境下では絵を描く力を失ってしまうのではないかという気持ちが生じてきました。それでテオによって、パリ近郊のオーヴェールに家を用意してもらいました。そこには、ガッシェ博士という美術好きの精神科医がいて、最適な場所に思われたのでした。

 

【終焉とその後】 1990年5月17日、サン・レミを引き揚げてきたゴッホは、パリのテオ家に立ち寄り、ヨハンナや甥のフィンセントと初めて顔を合わせました。ゴッホの病状も良好で、快活な様子でした。ヨハンナは、肩幅の広い、健康そうな顔色の義兄を見て、
「彼は完全によくなっているらしい。テオよりずっと強そうに見えるではないか」と印象を記しています。しかし、彼の一生はあと三月を切っていました。

 オーヴェールに移ったゴッホは、6月と7月にもテオ宅を訪れています。7月6日に訪れたのが最後の訪問になりました。このとき、テオ夫妻は子供の病気と、住宅問題で疲れ果てており、テオ自身は、さらに厄介な問題を抱えていました。サロン画を最上と考える会社の上役たちが、印象派などの前衛絵画をせっせと買い集めるオランダ人従業員のテオを無能とみなしたのです。テオは仕事に不満を持ち、自分で商売を始めることを真剣に考えていました。アメリカへ移住することさえ頭にありました。直前にゴッホに送った手紙には、
「けちなブッソとヴァラドンが、ぼくに僅かな金しかくれず、まるでただの新米か何かのように扱うので、一日中働いても、愛するヨーに金の心配をかけざるを得ない」と書いています。

 テオ宅にいたゴッホのもとにはたくさんの友人が訪れました。彼の絵を初めて誌上で論じた評論家のオーリエも会いに来ましたし、ロートレックもゴッホと食事をしにやって来ました。しかし、彼はテオのことで頭が一杯で、神経が高ぶり、疲れ果ててオーヴェールへ帰って行きました。

 

 自殺を決行したのは7月27日でした。この間、取りたてて重大な発作はなく、自殺は慎重に熟考された上での行動でした。彼は、テオのこれまでの全面的な支援と献身に報いる最後の手段を思いついたのです。

 少しずつ自分の絵画が注目されつつある今、画家が急死すれば、絵の値段ははね上がる。これは、一年前のコローの死をきっかけとして、『晩鐘』に50万フラン以上の値がついたという事実から明白でした。ゴッホは、弟夫妻及び自分の名が冠せられた甥っ子に対して、多額の遺産を残すことができると考えたのです。

 私は、ゴッホの全絵画を収めている画集をめくりながら、『1890年7月作』と記された油絵を数えてみたのです。その数は25枚でした。おそらく、パリに出た日をのぞいて、来る日も来る日も、一日一枚のペースで、テオ夫妻への贈り物を描き続けたのでしょう。ゴッホのことですから、最後の日も一枚、生真面目に仕上げていたと思われます。

 

 7月27日夕刻、外出したゴッホは、自分の胸に向けて、ピストルを発射しました。そして自力で家に帰り、ベッドに倒れ伏しました。家主が異常に気づき、医師が呼ばれました。翌日、パリから急行したテオの前で、ゴッホは一日中パイプをふかしていました。7月29日早朝、テオに見守られる中、「こうして死にたかった」という言葉を最後に、ゴッホは息を引き取りました。

 テオは母親に書いています。
「ぼくがどんなに悲しんでいるか書くこともできません。また、いかなる慰めも見出すことはできません。この悲しみは長く続くでしょう。ぼくは生きている限りこの悲しみを決して忘れないでしょう。ただ一つ言えることは、彼が自分の望んでいた休息を見出したということです。しかし、今となって、よくあることですが、誰もが彼の才能を盛んに誉めたてています……。ああ、お母さん、彼はあんなにも、ぼくの、ぼく自身の兄さんだったのです。」

 

 テオの弱い健康はいじけてしまいました。9月20日、テオは自宅で、兄の回顧展を開いたのち、心身に異常をきたし始め、10月には錯乱状態になり、画家の死の半年後の1891年1月25日、病死。享年34才でした。

 テオは、自分たち家族の経済的安定のために、兄が死を選んだことに気がついたのだと思います。彼はその事実に耐えられるだけの体力を持ち合わせてはいなかったのです。

雨雲のあるオーヴェールの麦畑……1890年7月作

 あとに残された夫人のヨハンナにとって、愛する夫との生活は、僅か一年半に過ぎませんでした。彼女はオランダに帰り、残された人生を、我が子フィンセント・ファン・ゴッホの養育と、義兄の芸術作品及び、彼がテオに宛てた645通の手紙を世に出すという仕事に捧げました。

 このエッセイは、素晴らしい女性ヨハンナの日記で結ぶことにしましょう。

 

1891年11月15日

 今や私はあらゆる世帯の苦労のために家事の奴隷に堕すことのないように気をつけねばならない。精神を活発にさせておかなければならない。テオは私に芸術について多くのことを教えてくれた―というのがまずければ―彼は人生について多くのことを私に教えてくれた。

 子供の世話のほかに、もう一つ別の仕事を彼は私に残して行った。それはフィンセントの作品である、それを世に示し、できる限りそれが正当な評価を受けるようにする仕事である。テオとフィンセントが集めたすべての宝―それらを子供のために汚されないように保存すること、これもまた私の仕事であった。

私は人生に目的がないわけではない、しかし、ひとりぼっちで、寂しく感ずる。

 

1892年3月6日

 最近は暇があると手紙の仕事に没頭している。あまりに長いことこの仕事を延期してしまったが、これからは規則的な仕事としてやっていくことにしよう。―完了するまでは着実に仕事をすること。最初のころのような情熱でやってはだめ。―あのころは真夜中おそくまでこの仕事に熱中してしまったのだから。そんな無茶は自分に許してはいけない。

 私の第一の義務は子供の世話ができるように、活発で健康であること。気持ちの上では、私は全くテオやフィンセントと一緒に生きている。ああ、あの間柄は際限もなく思いやりのある、優しい、美しいものだった。どんなに二人は互いを深く感じ合っていたことか、どんなに相手を理解し合っていたことか、また、ああ、ときにフィンセントの依存ぶりはどんなにいじらしかったことか、―テオは決してそれをフィンセントに感じさせなかった。しかし、彼は自分でそれを感じてしまう。そのあと彼の手紙は非常に悲しいものとなる。

 私はいくたびとなく手紙の上に涙をこぼした。私のかわいい人、なつかしい、なつかしいテオ、一つ一つの言葉に、文章の一行一行に、私はあなたのことを思い出している。私たちが一緒に暮らした短いときの間に、あなたはどんなに深く私をあなた自身の一部にしてしまったことか。私はまだあなたと一緒に、あなたのそばで暮らしている。あなたの霊が私に霊感を与えつづけて下さいますように。そしてあなたの小さな子供が無事息災でやっていけますように。

(00/04/22)


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