木炭デッサン「立てる裸婦」
この絵はMBM木炭紙(65×50cm)に木炭のみで描いたヌードデッサンである。女性はモデル紹介所から派遣されたプロのモデルさんで、全身が視界に入る数メートル離れた距離から、延べ6日、12時間を費やして完成した渾身の力作であった。
自分自身で力作と書いたのは、おそらくこのようなデッサンを二度と描くことがないためである。その理由は、この木炭という画材に対する苦手意識にあった。
それはさておき、まずこのモデルの女性についての描写から始めよう。私は一目見るなり、彼女の容貌とプロポーションの美しさに心を奪われたことを記憶する。
その整った顔立ち、流れるようなボディーライン、小振りな乳房、張りのある腰から太腿と臀部。華奢(きゃしゃ)な上半身に対して、頑丈そうでしっかりした下半身が目に心地よい。
構図は、両手を後ろで組み、左足をやや前に、右足を軸にした立ちポーズに決まったが、実際に木炭デッサンに入る前には、早描きスケッチで全体像を把握する必要がある。私はB4サイズのクロッキー帳と2Bの鉛筆を手に取り、左斜め後ろ、左側面、左斜め前、ほぼ正面、右斜め前、右側面の五方位からクロッキーを行った。
この中で、左側面は形が申し分なく一番美しいと思われる角度であった。人体がメインのデッサンであっても、顔は重要である。また、各方位からクロッキーをすることで形が生きてくる。左側面からでは見ることが出来ない、肩と頭部の距離とか、肘の突き出し具合を把握することが可能になるのだ。
イーゼルを設置し、画板に木炭紙をクリップ留めすると、さっそく木炭に取りかかる。全身像の輪郭線を薄く、薄く、紙に載せていく。足は踵からつま先まで画面ぎりぎりに入れる。少しでも人体を大きく描くために、頭頂部まで全部入れずに故意に切れるようにした。ほぼ全身の配置が決まったところで、明中暗の調子を少しずつ描き込んでいく。
生身のモデルによる絵画制作では、モデルの疲労を考慮して、20分のポーズ毎に5分乃至10分の休憩が入る。この絵を描いたときは一日6回のポーズのうち、一回を息抜きを兼ねて自由ポーズとしたのだが、彼女はこのときダイナミックさにとぼしく、ぎこちなさをのぞかせていた。
一方固定ポーズでは、途中に休憩が入っても当初のポーズと寸分違わず、またぶれることもない。モデルさんは画家の協力者かつ協同作業者であり、意志が疎通しないモデル程悩ましいものはないが、彼女の再現性の高さと不動性は高いプロ意識を感じさせた。
その不動の身体のうちで、唯一動きを止めない部位が呼吸する胸であった。その小刻みな律動は画家の目を釘付けにする。何とかして彼女の息遣いまで画面に表現できないか、そう考え、それを木炭で捕えようと躍起になっていた。雲をつかむような困難な虚しい足掻きの感触は、今もこの画像を見るたびに脳裏に甦る。
もう一点、目の中に、いの一番に飛び込んできたのが、明るい裸身の中央でそそり立つ黒い陰毛である。正面から描いたのでは気づかなかったかもしれないし、他のモデルでも見た記憶にない。
きつく締まった下着を装着するとき、俯いていた陰毛は逆立って、上向きに圧着される。ポーズのために解放されたそれは、不思議な生命力を感じさせる強いアクセントを形作っていた。
目で見て刺激の強い部分は、誰が見ても強く目に映るのでしっかり見て描き込む必要がある。しかし、早い段階でこれを描いてしまうと、未完成の全体に比べて主張し過ぎるので、画龍点睛ではないが完成間近になって仕上げたように思う。
ポーズの20分はあっという間に過ぎる。休憩を含めて与えられた一日3時間は放たれた矢だ。裸婦を描くということは怖ろしく高価で、かつ滅多に得られない機会であり一期一会でもある。作画精神が弛緩したり、エロティシズムを感じている余裕はない。
限られた時間内で出来るだけ多く収穫するために、一本の木炭というちっぽけな武器を盲滅法にふりまわしているだけなのだが、であるが故に画面にはピンと張った何かが漲っているように感じられる。
筋肉から顕れた骨格の突起が、柔らかい裸婦像にアクセントをもたらしてくれる。両の乳首の開きと両の足先の開いた角度には対称がある。形体に対して強弱をつけた上で、さらに全体と調和させること。
アカデミックな描き方を突きつめることで自由に応用が利くようにもなるし、進むべき方角が見えてくることもある。またアカデミックなままで伸ばしていったって良い。
人は、描かれたものを見ると同時に、背後に潜む何かを見るものだ。
ここにひとつの問いがある。芸術家の最大の関心が人間であったことは、歴史的に見て明らかであるが、我々画家はギリシャ・ローマの昔から、なぜ裸身を描き続けてきたのだろうか。なぜ今もって私たちは裸婦を描いているのであろうか。
絵の魅力とは、絵の魔力、或いは絵の呪力と言い換えることができる。呪力、呪術というと何か曲々しい不吉ものを連想させるが、絵の起源が呪術であったことは間違いない。
未開の狩猟民族ピグミーが、暁光の下、地面にカモシカの絵を画き、これを弓で射たのちに狩りに出かけたという話が伝わる。
日照りの続く部落では、呪術者が川の水をバケツに汲んで、あちこちに撒きながら走る。これを見た部落民は「雨が降った」「雨が降った」と口々に叫ぶ。
これらの儀式は、あとに引き続いて起こるべき願望を先取りした、模倣呪術とか類感呪術と呼ばれる行為であった。
呪術者である画家が、裸婦を描くとき、あとに引き続いて起こるべき願望とは何か。それは個人的な欲望であるだけでは不十分で、社会的な、コミュニティーに共通の果たさるべき願望でなくてはならない。
古代日本の土偶、埴輪には明らかに妊婦と思われるものが残っており、西洋や中東にも妊婦を表現した土器、テラコッタが存在しているのは、地母神信仰が広く伝播した結果であり、これらは皆、豊穣を祈願する呪物だったと考えられているが、まさか現代の画家に、豊年満作のために裸婦を描く変わり者はいないだろう。
対象に向かって呪術的な力を実現したい欲求に拠って描かれる絵画。と同時に人間社会にとって共通願望である絵画。となれば、生物全体の存在意義である、種の保存のための呪い(まじない)とならざるを得ない。
呪術者である芸術家が裸婦を描くのは、 男が見目の良い女を望む生殖本能と同じ意味であり、女が立派で逞しい男を求める生殖本能と同一である。一族の血に、傑出した遺伝子を取り込みたいという、種を維持するための生存本能に他ならぬ。
作者の個人的な欲求は作品を描く行為によって満たされ、解消・浄化される。鑑賞者が一流の作品を見て感ずるのは、作者が抱いた思いと近似する、作品である彼や彼女を所有したいという欲求である。美しいものを愛でる本能は生殖本能と直結し、そしてまた、描かれた絵を見たいと願う人、所有したいと願う人が多ければ多いほど、シャーマンの呪力は強い。絵は所有する人々にとって護符となるだろう。
冒頭で木炭デッサンに対する苦手意識に触れた。最後にそれを補足したい。
下に掲載した顔の拡大図を見てもらえば分かるように、木炭紙には筋目がある。垂直方向に規則正しく刻まれた凹凸が紙全面を覆っている。この厚みのある木炭紙に対して、木炭の腹を使って画面をソフトになぞり、こすることによって、木炭粉を筋目に重層的に落とし込んでいく。
黒い木炭粉で筋目の谷を埋めたり、谷は白いままで山にだけ木炭粉を付けたり、或いは一度つけた上で、食パンや練りゴムや布でぬぐったり、指で押さえたりすることによって、画面に明暗の調子をもたらすのである。
けれども私には、この一切の作業がままならず、したがって木炭を扱うことは苦痛でしかなかった。試行錯誤するうちにせっかくの筋目はつぶれ、そうなると木炭粉が載らなくなってしまうので、どうしても調子やグラデーションを上手く表現できなかった。
この難局に対し、ある師匠がハッチング描法を奨めてくれた。それは木炭を小刀で尖らせ、先端を鉛筆のように使って、横に、斜めに細い線を並置し、重ねていく描き方であって、この「立てる裸婦」もハッチングだけで仕上げている。この技術は、サンプル号と創刊号で取り上げたテンペラ画における“ハッチングへの展開”を容易なものにした。
とはいうものの、やはり、木炭デッサンは苦手と言わざるを得ない。制作中、私はとうに気づいていたのだ、モデルさんの頭があまりにも切れていることに。しかし、もはや間に合わぬ。
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