油彩画「金婚式を迎える夫婦の肖像」
表題の肖像画制作について問ひ合わせがあつたのは12月中旬のことである。両親の写真からの肖像画、実像よりも5歳程度若くしたい、最短でいつになるか、といつたやうな内容であつた。
肖像画家は絵を描きなれてゐるだらうから、お年寄りを若くするのも子供を大きくするのもお手のものと、依頼者は考えがちである。けれども、正直それは無理と云ふものであつて、残念ながら画家はご両親にお目にかかつたことがない。
5歳でも10歳でも若くしたいと望むなら、5年前、10年前の写真を送つてほしい。ところが往々にして、5年前10年前の写真はお持ちでなかつたりする。
どうか読者の皆様だけはご理解いただきたい。写真から描き起こす場合、肖像画は送つていただいた肖像写真がすべてなのです。肖像画は写真以上のものにはなり得ないのだと。
但し弁解付言したいのは、絵には絵の良さがあると云ふこと。まづ第一に、絵の耐久性は写真の何倍も勝つてゐる。それは安価な複製品にすぎない写真とは、色材の堅牢度と使用量がまるで違ふ為である。
第二には、絵師の眼と手と心を通つて生み出されるために、芸術性が付加されると云ふこと。写真は光学処理された現実そのものである点で正確さに於いては秀でたものではあるが、長く見続けるのには適してゐない。
一方、絵画は手間暇かけてどんなに精確を期さうとも、人間を通したものである以上、現実とのずれを生じざるを得ない。しかし、下手であらうと上手であらうと、万が一似てゐなからうと、そのゆらぎが表現となり、深みとなる。
であるがゆゑに長く見続けることができる。見るたびに新しい発見がある。手が作るものは、さうした芸術作品となる可能性をいつも含んでゐる。
以上の事柄はお客様の向かつて書き送る訳にはいかないので、容貌につきましては写真を変更するのは大変困難です、とやんわりとお断りする。
といふことでご納得いただいたものとして、添付された集合写真から、依頼者ご本人とご子息を除いたご両親だけの二人肖像画に再構成した。これはパソコン上でフォトショップと云ふソフトを使へば割と簡単に出来る。
さらに別の写真の衣服を合成したり、異なる額縁の写真にはめ込んだりして完成予想図を三種作成する。さうして(1)(2)(3)と番号を振つて、見積金額を付記してメール送信。翌日には書面で見積書を発送した。
まもなく検討しますとの返信が入る。しかし、これ以後連絡は途絶えた。予算が合はなかつたとすれば仕方ない。まづ三日の裡にご依頼なくば、あきらめるべきであらう。
さうして年が明け、1月がすぎ、2月も下旬となつた23日、意外なことにメールが届いた。写真(1)にして下さいと。ありがたい肖像画の成約である。納期は4月15日で承諾を得た。
かうして制作が始まつたのであるが、このときのそれはいま思い出しても背筋が寒くなるほどの、試練の日々となつた。絵描きを自称する日本人は五万とゐる。一方で、絵だけで喰へてゐる正真正銘のプロはけつして多くはない。
むろんわたしとて例外ではなく、当時は正社員として町工場に勤めてゐた。町工場のほとんどは大手メーカーの下請けである。週休2日は保障されたが、就業規則どほりに働いてゐて間に合ふやうな仕事ではないのであつて、そんな事情でやつと肖像画に着手したのは、受注から7日目のこと。まさに日曜画家であつた訳だ。
さて、制作の最初の作業はPCソフトで大きな全体写真1枚、顔のアップ2枚、半身像2枚、元写真1枚、若い時代の写真1枚をそれぞれ用意すること。これらを写真店で現像をしてもらふ。さらに数日後コンビニで、キャンバス原寸大に拡大した。
3月は年度末のため、朝7時前に家を出て終電で帰る日々がつづく。工場の納期に土日は関係なく、週二日休むには、たとへ泊まり込みにならうと自分で確保するほかはない。会社から残業しないやうにと厳命されてゐる為、申請さへも許されぬ。
キャンバスに輪郭線を写したときにはすでに2週間をすぎてゐた。次の休日、描き易さうな母親の顔から彩色に着手した。
私の油絵は厚塗りである。この技法は不経済ではあるが、作者の息遣いそのままの筆跡が面白く、腕達者に見える点はメリットと云へる。初心者ではかうはならない。コツとしてはまづ、柔らかい馬毛の丸筆を選ぶこと。硬い豚毛の平筆は厚塗りに向かぬ。
つぎに、混ぜるべき絵具は予めナイフで作つておくこと。素人は絵具を作ることを知らない。筆先で数種類の絵具を拾いながら混ぜる方法では厚塗りにならない。多めに作つた絵具の山を丸筆ですくつて、そのまま置くやうに塗るのである。
絵具はどのやうに作つたら良いか。私のパレットは、堅牢度と乾燥性で選んだ以下の11色で、リンシードオイルで練られた絵具を優先してゐる。ポピーオイルは亀裂を誘発するから溶き油としても使はない。
白 :ファンデーションホワイト(使用顔料はシルバーホワイト)
黄土:イエローオーカー
赤土:レッドオーカー
赤 :キナクリドンレッド
黄色:ニッケルイエロー
青 :コバルトブルー
緑 :ビリジャン
鈍緑:オキサイドグリーン
茶 :バーントシェンナー
焦茶:バーントアンバー
黒 :マルスブラック
では混色について、肖像画の命と云ふべき肌色を例に取らう。最初に黄土とほんの少しの赤土を混ぜた絵具を一山作る。これが肌のベースとなる。ベースをナイフで取り分けて多めの白を混ぜる。さらにそこから混ぜたものを取り分けて多めの白を混ぜる。これで明るい肌色が三段階得られた。
つぎに又もとのベースをナイフで取り分けてほんの少しの茶色を混ぜる。さらにそこから混ぜたものを取り分けてほんの少しの焦茶を混ぜる。これで暗い肌色が二段階出来るので、全部合はせて五段階の肌色が完成。
これらの絵具を予め揃へておけば、容易に立体感のある厚塗りの肌を描くことができる。
仮にこれらを桜色、肌色、小麦色、あずき色、檜皮(ひはだ)色と名付けてみるなら、誠に美しいグラデーションが頭に浮かぶだらう。人間にとつて一番馴染のある色は、自分の肌の色、母の肌色ではないだろうか。
茶色のかはりに緑をまぜたり、白の混ざつた肌色に焦茶色をまぜたりすればニュアンスの違つた肌色となるし、最後に赤を微量加へると頬の赤みが得られる。
私はモデルを描いて快調に進んでゐるときに、パレット上に現れる正確無比なグラデーションにいつも驚かされる。画面が不調なときには、パレット上も汚いのでもう一度作り直さざるを得ない。パレットとは画家のバロメーターでもあるのだ。
こんな具合で27日一杯描いて、母親の顔は75パーセント仕上がつた。28日の帰宅後には父親の顔に着手。29日はめづらしく午後7時に会社を退出するも、ひどい疲れで作画の為に夜おきることはかなはず。
30日、父親の腕を完成。31日の休日は、父親の顔を終日描画。一筆描いては息ぎれがする。寝てはおきて又寝ておきて、カフェインを摂り、一風呂あびて、描いては又ひと風呂浴びて、やつと正気に戻つた気がして筆を執ると、能面のやうだつた表情がいきいきしてきた。
4月2日の休日、父親の顔はほぼ完成。母親の顔を加筆。背景の山を完成。空とシャツを残す。翌3日も休み。背景の空と植え込みを描画。ふたりの髪の薄い部分は、若い写真を参考に増毛す。
5日から9日まで終電で帰宅。納期の15日がせまり焦る。10日の帰宅後には、描き忘れのないやうに、描き残した箇所のチェックリストを作成した。11日は終日描画。12日帰宅後、強すぎる髪と空をおさえる。
13日、午後8時に帰宅。夕食後2時間仮眠して徹夜で描画。日付がかはり納期の前日となつた。画面左の門柱、緑、家。中央の緑、家、土手の彩色。父親の陰影を抑える。母親のパッチワークの夏服が複雑すぎて、はたと困つた。しかしこれは、細かく追ふしか方法が無ささうだ。
14日は出勤日だつたが上司に電話し、午後出勤を願いでる。さうして衣装の柄の彩色を開始。追つて上司より、出社する必要はないとの電話。助かつた。丁寧にチェックの柄を描きこみ、2時半に署名を終へる。これを撮影して写真を作品ページにアップロードした。
さうしてお客様あて完成報告メールをおくつてから、電話をかけて絵をチェックしてもらう。修正は不要の由。乾燥がまだ不十分なことを説明し、お届けを4月21日延期していただいた。又額縁屋宛て20日に訪問する旨連絡す。
18日帰宅後、ごく薄塗りで、父親のシャツの縦縞と陰影をおさえる。母親のチェックの柄も薄塗りで細かく加筆。19日帰宅後、顔を微調整。陰影を抑える。深夜より20日の昼すぎまでかかつて制作データシートと保存のしをり、納品書を作成。
午後1時、作品をかかへて銀座の額縁店に急ぐ。額装してもらひ撮影したあと、店長にお客様のご実家宛て発送を依頼して、トンボ返りで会社へむかつた。
21日深夜から朝3時までかかつて請求書と送り状を作成し、朝食後封書の発送を妻に依頼してから出勤。終はつた。まことに嵐のやうな日々であつた。
つねに時間に追はれる中で、やりがいとか手ごたえとかに触れたとすれば、それは夫婦の肌が正しく構築されていく瞬間であり、また母親の衣服のパッチワークのピースが、寄木細工のやうに、規則正しく嵌め込まれていく瞬間であつた。
おそらく今後再見する機会はないだらうが、お客様の元へ届いた作品がどこかの部屋に飾られてゐる。その側を家族が行き来しながらふと夫婦の肖像に目を留める。さうした状景を想像する画家のささやかな愉しみは、次の困難な仕事に立ち向かふモチベーションへと転化する。
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