水墨画「オランダ人の肖像」
この絵はフランスに渡つて二ヶ月目に、マルセイユのユースホステルで描いたものである。この宿泊施設は、フランス語ではオーベルジュ・ド・ジュネス(Auberge de Jeunesse)と呼ばれてゐる。
海外旅行中はホテルを利用するのが普通であるが、二ヶ月、三ヶ月、それ以上となるとホテルのランクを落とさざるを得ない。またそれ以上に安くするなら、赤の他人と相部屋にはなるがペンションを利用すると云ふ手がある。
さらに宿賃を切り詰めたければ、六人部屋、八人部屋になつてしまうが、オーベルジュ・ド・ジュネスがお薦めである。ユースと云つても年齢制限はないので、ヨーロッパでは年配のハイカーや老夫婦が泊まつてゐたりするのに出会ふこともある。
尤も少しお金を出せば個室やツインもあつたりするが、いずれにせよ、ホテルと比べると格段に安い。ただし、予約は出来ない建前なので、観光シーズンの場合は、当地に着くとまず第一にオーベルジュを確保する必要はある。
ここでは初日の宿泊費用にシーツ代が含まれている。パンとジャム類、珈琲だけの朝食が込みになつてゐる場合もあるし、そうでない場合もある。二日目以降はシーツ代はかからない。 共用のシャワー、トイレ、コインランドリー、食堂兼談話室が用意され、場所によつては自炊設備も無料で使えて、2003年当時で二千円弱であつた。現在なら四千円ぐらいだらうか。
オーベルジュを利用するには、ユースホステル会員証が必要で、出国前に最寄りのユースで入手できる。新宿には「地球の歩き方プラザ」があつて、海外旅行用品や各国用のレイルパス(一定期間乗り放題になる乗車券)などと一緒に購入した。
出発前に、書店で『ヨーロッパユースホステルガイド“Hostelling International”』とか『地球の歩き方フランス編』とか『ヨーロッパ鉄道時刻表』とか『デイリーコンサイス仏和・和仏辞典』とか探し廻つたことが懐かしく思い出される。
今海外に飛び立つ若い人たちは、これだけたくさん用意しなくとも、たぶんスマホで済ませてゆけるのだらう。
先に書いたことであるが、年配の男女も、友人同士、一人旅、地域・国名の別なく、オーベル・ド・ジュネスを利用する。パリでは相当数見かけた日本人女性の一人旅も、地方では見かけなかつたが、外国人女性は普通に利用していた。
もちろん、安全の意味もあつてか、一見して裕福さうに見える利用者は皆無ではあつたが、老若男女、日本人でも外国人でも、気の合ふ者と知りあふ機会は、ホテルに比べると格段と増加する。
出会いの楽しみは旅の醍醐味であり、これをふんだんに味はうことの出来るオーベル・ド・ジュネスは捨てがたい魅力を湛へてゐる。
さて、私のフランス滞在の第一の目的は、巨大な岩山・岩塊を墨で描くことであつた。日本で出発前に視聴したフランス映画『父の栄光』“La Gloire de mon pere”に、白い岩山が主要なモチーフとして扱われている。
その名も岩塊ガルラバン(Le massif du Garlaban)と云ふのだが、渡仏するまで私はその名も場所も認識できないままでゐた。
南仏モンペリエ在住の日本の友人を訪ねた折に、マルセイユのカロンクに石灰の山がゴロゴロあるよ、と聞いていたので、あれはたぶんマルセイユにあるのだらうと見当をつけて当地を訪れたわけである。
2003年の12月6日、オーベルジュ・ド・ジュネス、ボワ=リュジー城にチェックインし、モチーフを探しに出る。リュミニーにピュジェ山(Mont Puget)と云ふ白い丘を見つけ、これを描くことに決めた。
翌7日、使い勝手と人当たりが今一つだつたボワ=リュジーを後にし、日中はピュジェ山を描きに行く。そして夕方6時、市内もう一箇所のオーベルジュであるボヌヴェーヌにチェックインをした。
食堂で画材を脇に置き、持ち込んだ食品で夕食を摂ってゐるときに知り合つたのが大柄で“がたい”の良い白人青年であつた。きつかけはなんだつたか。二人とも連れのない一人旅で、二人とも当地には異質の人種であることだつたらうか。
12月といふのに胸の開いたTシャツ一枚の大男とイーゼルを脇に置いた東洋人が、お互いに一瞬ふと気を弛ませる親密な空間を生み出してゐた。
「カール(Carl)と呼んで呉れ。オランダ語では、カ・ル・ル(Karel)と言うんだが。」彼は26才でフランス語はわからないとのことだつた。体格が良いのでスポーツをやつてゐるのか問ふと、マーシャルアーツをやつてゐたと云ふ。
「同じジムにはピーター・アーツがゐたよ」
「Peter Aerts!」私でさえ知つているその名は、オランダ出身のスーパーヘビー級キックボクサーで、1970年生まれ、身長192センチ体重105キロ、K-1グランプリでは94年、95年、98年に優勝しているK-1四天王の一人である。
当時はアムステルダムのメジロジムに所属してゐた。目白ジムとは、極真空手の大山倍達(1921-94)の直弟子第一世代の黒崎健時(1930-)師範代が極真道場を放れて1969年に創設したキックボクシングジムである。
黒崎はオランダにキックボクシングを根付かせた。アムスを拠点とするメジロジムオランダ支部、ドージョー・チャクリキ、ボスジムの三流派はいずれも黒崎門下生の弟子筋によつて設立されてゐる。1977年生まれのカルルはメジロジムにゐたと思はれる。
尤も、これはネット検索を駆使出来る今だから推測できることで、当時の私は此処までの情報は持たない。彼は穏やかながらネイティブと遜色のない流暢な英語で話し、時折私の単語力を大きく凌駕して、話題を見失ふ一瞬を生じさせたりした。
それから私の仕事の話になつた。これは絵を見せるのが手つ取り早い。今日の作品はまだ下描きなので、ひと月前にアルプスに程近いアヌシーで仕上げた会心の作を広げてみせた。
「ロンフォンの歯」と名付けられた前歯のやうな巨大な岩塊の並びから、左右に構える二本の高い松の樹幹を伝つて視線を下げると、アヌシーの湖水の手前に、背の低い木々が細かい無数の枝葉をそよがせてゐる。縦88センチ×横32センチの縦長構図である。
「これだ、細部(detail)だ、細部が大事なんだ。鑑賞者の眼を魅き付けるのは細部なんだ」と、カルルは突然云ひ出したので、私は目を丸くした。18才年下の彼との会話は、格闘家といふより、文系出身者で私と同世代の友人を思ひ出させた。
彼は私の来る数日前から逗留していたやうだつた。私は二日目の月曜日もピュジェ山へ行き、一日水墨画を描いた。夕方戻つて来て食堂でカルルと出くわすと、明日はレジョンに行くと云ふ。
「レジョンとはなんだ?」と尋ねる。レジョン・エトランジェール(Legion etrangere)。それは私も日本語では知つている単語、『フランス外人部隊』のことであつた。
マルセイユの隣のオーバーニュ(Aubagne)にはレジョンの本部があつて、彼はオランダから志願して来た。マルセイユのオーベルジュに宿泊しているのは、ひとえにその準備のためだつたのだ。 私は感に堪えない思いで、しかしまた尋ねずにはをれなかつた。 「なんでまたそんな危険を求めるのだ?」 「外人部隊を5年間勤め上げた暁にはフランス国籍がもらえるのだ」
「5年は長いさ。レジョンに入隊したら、新たな名前が与えられ、外部とは一切連絡が取れない。家族とも。任務で命を落としたとしても、消息は一切外部に伝えられない」 「そんな無茶苦茶が今もあるのか?君は格闘家で運動神経もずば抜けているのだから、特殊部隊とか危険な任務に率先してまわされるのではないか?」
「分からない。今フランスと交戦中の国はないが、海外領土の紛争に派遣されることはあると思ふ」 「カルル、絶対に死ぬな・・・」「入隊間際に、東洋の絵描きに出会つた記念だ。君の肖像画を描かせて呉れ。2枚描くから、出来のいい方を選んだらいい」
こうして私は墨でカルルの肖像画を描いた。最初の一枚は、まだお互いの緊張が抜けなかつた。向こうは前を見据ゑて、気迫を内に秘めた面構え。容易に画紙の方へ乗り移つて来ようとはしない。どうも上手く行かぬものだ。
次の一枚になると、お互いに肩の力が抜けた。彼は緊張を解いたやうで、内省的な表情になつた。そして素直に画紙の方へ赴いて呉れた。気がつくと、生きた彼がゑの中にゐた。
と云ふわけで、完成した二枚目がこの絵であり、出来は断然こちらが良かつたのだ。しかしカルルが選んだのは最初のはうだつた。
「二枚目のはうが良いと思うよ」 「ありがたう。この絵は明日の朝、オランダにゐる母に宛てて送るつもりだ。」「一枚目は強さうに見える。二枚目は物思ひに耽つてゐる優しい絵なので、これを見た母が心配するといけないからな・・・」
出来上がつたばかりの絵に大きな落款を押す。彼が読めるやうに裏にもTacanoと鉛筆で署名した。カルルが選ばなかつた絵の裏には、名を記してもらつた。 “Karel Jansen”(カレル・ヤンセン)、私はこの名を決して忘れないだらう。
明くる朝、食堂でカルルに会つたので声をかけると、一睡もしてゐない暗い顔で、目を合はせずに「済まないけど、今日はもう誰とも話せない・・・」と言つた。
オーバーニュに向かふ時刻が来た。山のやうに大きな荷物を背負つて部屋から出て来た大男のカルルと目が合つた。“Good luck”と一言、声をかけると、“Farewell(さらばだ)”とだけ返した。通り過ぎたカルルはもう振り返らなかつた。
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