水墨画「古岩屋図」
この絵は愛媛県浮穴郡久万高原町に位置する景勝地「古岩屋」を描いたものである。かつては、いや今もさうであるかもしれぬが、四国霊場八十八ヶ所の第四十五番札所、海岸山岩屋寺の寺域であつた。
今から32年前、昭和から平成の世に代はつて二年目の1991年、32才の私を未踏の地、四国は伊予の古岩屋へと導いたのは、国宝「一遍聖絵(いつぺんひじりゑ)」と呼ばれる絵巻物である。浄土三宗の一つである時宗の開祖、一遍上人(1239-89)の生涯を描いてゐる。
これは一遍没後の十年忌に、最初の弟子で甥だつたとも云はれる聖戒によつて完成された、日本美術史上中世を代表する傑作とされている。
聖絵には上人が遍歴した全国各地の名勝・社寺の景観が、美しい自然とあらゆる階層の民衆の姿と共に克明に描かれる。
伏見帝の世の権力者、関白従一位・九条忠教(ただのり)の勧めに拠つて、聖戒が企画。大和絵の名手・土佐法眼円伊が絵を描き、書の名門・世尊寺家の始祖・藤原行成から10代目の経尹(つねただ)が各巻の外題の筆を執つた。詞書(ことばがき)も当代一流の四人の手に成るものと云われている。
その聖絵の冒頭に近い第二巻に収められている山水画を見たとき、私の目は釘付けになつた。
そこに描かれていたのは、高さ数十メートルはあらうか、垂直に屹立する三峰の奇岩であつた。頂上には赤い鎮守の祠(ほこら)が設置され、最も高い奇岩には長い梯子が掛けられていた。
二十一段の梯子の上段には若い聖戒が、それに遅れて下段には一遍が頂上を目指している。画面の調子は、明るい黄土や褐色地に青や緑が彩られ、ところどころにしろや赤や橙が点ぜられて、何とも美しい。
このように描かれた日本の景観を初めて見た私は、この地を訪れ、絵に描いてみたいと願はずにはをれなかつた。
ちなみに第二巻のこの段は、「菅生の岩屋」の情景とされ、一遍上人開眼の地と記されてゐる。
一遍上人は元々、源平合戦でその名をとどろかせた河野水軍の総帥・河野通信の孫、河野通尚(幼名松壽丸)として伊予国浮穴に生を受けてゐるので、菅生の岩屋は生来の在所に程近い。
加へてこの地は、敬愛する讃岐出身の弘法大師空海ゆかりの地でもあつた。
岩屋寺訪問の機会は意外に早く訪れた。
私が美校で専門として修学したのは油絵であつたが、簡易スケッチ法として当然水彩画も制作する。このみずゑ技法の延長線上に日本画やフレスコ壁画があり、これらも各学年の夏季ゼミナールの機会に学んでいた。
日本画の描き方が分かれば、門外漢にとつて水墨画とて似たやうなものである。独学故にまだ大作を手がけた経験はなかつたが、この菅生の岩屋を水墨画で描かうと思ひ定めた。
交通公社のガイドブックで、岩屋寺の近くに「古岩屋荘」と云ふ国民宿舎を見つけたのでここを宿泊地と決め、四国に渡つたのが1991年9月26日のこと。翌27日は、松山に甚大な被害をもたらした台風19号の当日であつた。
28日は松山を出発し、JRバスで久万を目指す。久万からは伊予鉄バスに乗り換へ、古岩屋に到着。国民宿舎古岩屋荘の目の前には、巨大な四枚の岩峰が聳え立つてゐた。その瞬間にはこれを描くと決意したものの、聖絵とは若干違ふやうな気がしたので、宿舎の支配人に尋ねると、岩山は岩屋寺の境内にあると云ふ。
よし、この日は菅生の岩屋図の確認の日と決めた。表通りの車道でなく、裏手の旧遍路道を歩いて、四十五番札所海岸山岩屋寺へと向かふ。と間もなく右上の高い岩窟に巨大な不動明王像を見出した。
明王は川を隔てた向かう側の地面から20メートルはあらうか、遥か中空に浮いてゐる。「おお凄い…」これには我にもなく戦慄を覚えた。
道は次第に山深くなつていき、あちこちに真新しい倒木が横になつてゐる。人ひとり歩いてゐない。「蝮に注意!」などと云ふ立て札がある。2時間近く歩き、岩屋寺の奥の院が近づいた頃、突然ぶおんぶおんと法螺貝が響き渡つた。
凄絶なる音色。薄暗い森に仁王が立つてゐた。山伏である。白い行者衣をまとつた浅黒い大男で、つい目が合つたので声をかけてみると、徳島の行者であつた。一日一ヶ寺、徒歩でなく車で八十八ヶ所を巡つてゐると云ふ。
目前には大岩の裂け目が広がり、上から鎖が垂れていた。行者は、迫割禅定(せりわりぜんじょう)と云つて、子宮のやうな岩間を通り抜けて白山大権現に参るのだと説明する。そして金剛杖を手にしたまま鎖を攀じ登らうとする。「杖は置いておかれた方が良いのでは?」と声を掛けると、「道具にも行をさせてゐるのだ」と返した。
この言葉は胸を打つた。私は古岩屋荘に絵の道具を預けて来たので、手ぶらであつたことを羞じた。
ややあつて降りて来たので、途中で見た岩窟の不動明王像のことを教へると、「若いのと話しても何の甲斐もないとは思つてゐたが、これは良いことを聞いた」と行者は失礼なことを口走つた。
彼と別れて本堂に向かふと大師堂の前で今度は松山の行者に出会うた。小川さんと名乗つたので、高野と云いますと返しながら高野山を連想し、ふと「南無大師遍照金剛」なる真言について尋ねると、「あんまり深入りせん方がええよ」と云ふ。なるほど、そう思ふ。別れた私は、今度は車路を歩いて古岩屋荘へ帰つた。
29日からはまず「古岩屋図」の制作準備に取りかかる。三階建ての宿舎の屋上から古岩屋の全貌が望めたので、用意してきたアルシュ水彩氏に墨で一枚仕上げる。これは水墨画と云ふよりモノクロの水彩画になつてしまつた。翌30日は終日雨。何も出来ない。
雨のことは考えになかつた。朝、食堂でお遍路さんと話した。長崎は島原の医師で障害者を診るのが専門と云ふ。全八十八の札所をを50日歩いて廻ると云ふ。彼の仕事に思いを馳せた私は、労働に対する献身とかそんな意味で、当時「新人類」と呼ばれていた若者のことを話題とした。
「新人類とかそんなことはないと思ふ。真に仕事に目覚めるか、否か、その違いだらう」と彼は答えた。また「若い頃はね、患者よ、どんどん来なさい。皆直してあげる、と云ふ気持ちだつたが、五十を越えたとき、どうすることもできない気持ちが生まれて来た」と言つた。患者の三人を失つた、とも。
私たちは、雨に濡れた窓辺の景色に向かひ合つていた。昨日古岩屋をスケッチしながら感じたことを話してみる。「四つの岩峰が立ち並ぶ岩屋は、私には女性の臀部と両の腿をひつくり返した形に見える。中央の二つの岩の間の割れ目(迫割)を分け入つて行くと、巨大な女性の股から再び生まれ変わることが出来るやうな、そんな感じを描いてみたいのだ、と。
話が上手く伝わつてゐないやうで説明に窮した私は、私が描かうとしてゐるものを急に見せたくなつた。そして彼を雨に濡れそぼる屋上に連れ出し、道路や階下からは見ることのできない古岩屋の全貌を見せた。
雨に煙る岩山。中央の割れ目に霧が漂つてゐる。医師は語つた。「お話では分からなかつたが、かうして見ると、この状況はお産の直後と全く同じだ。赤ちゃんが生まれるとき、本当に薄く湯気が立つんだ。終はると筋肉も弛緩して、この岩山とそつくりになる。そうして、緑は安らぎなんだね…。」私はとても嬉しかつた。
10月1日。宿舎では4日目の朝である。この日が水墨画の初日と云ふのにチェックアウトせねばならない。三連泊が限度の決まりである。支配人にお願いして16時まで屋上で仕事する許可をもらうと、用意してきた三六(90×180センチ)の自然色麻紙を拡げた。
薄墨で輪郭を取る。岩山までの距離が近くて、四枚の岩峰は一度に見渡せないので、建物屋上の左端に移動した。和紙の左側に左端の岩を描き、建物の中央へ移動。中央の大岩二枚を描く。されに建物の右端に移動し、右端の岩を描く。これで四峰が一枚に収まつた。
今回は荷物の重量を減らすため硯を持参せず、代はりに持つて来た皿で墨を磨る。これを刷毛に付けてさつと一塗りすると、でかい画面のために墨は直ぐに足りなくなり、また墨を磨る。絵はまつたく進まない。岩々の細部を追つても追つても描き切れない。古岩屋はもう止そうかと思ひ始める。
どうにも皿で墨を磨つていたのでは、タタミ一畳の画面は間に合はないのだ。早、時間が来てしまつたので、古岩屋荘から徒歩一時間の民宿和佐治に一夜の宿を求めた。
翌2日、古岩屋に再びチェックイン。これからの三泊で絵を仕上げねばならぬ。来る途中、文房具屋で墨汁とスケッチブックを購入し、宿屋で勧められた久万美術館で「久万山絵図」(江戸末期作)を見たのが幸いしたやうだ。水墨画は俄然良くなつてきた。 10月3日、岩頂の木々を描いてから、スケッチブックを左右二枚続きにして、水彩絵の具による全図に着手。少し余裕が出来たので、墨だけでなく、古岩屋の色彩を描き止めておきたくなつたやうだ。
10月4日、墨汁の所為か、岩が真つ黒になつてしまつた。これは消せない。とはいふものの、中国絵画の巨匠、敬愛して止まない北宋の范寛(はんかん)の皺法(しゅんぽう;岩石のシワの描き方)である雨点皺が少し掴めて来たやうなのだ。
10月5日、最終日。チェックアウト後再び支配人にお願いして、屋上で古岩屋図の仕上げに取りかかる。14時30分。やはり黒過ぎた。墨汁でなかつたらここまで黒くはならなかつたかもしれない。が、描き切つた感はある。十分満足して、支配人にお礼を言うと国民宿舎を後にした。
この後向かつたのは、勿論岩屋寺である。しかし、これは別に綴るべきお話。
これから4年後の1995年7月、この絵を鎌倉雪の下の鈴木表具店に持ち込んだ。そして3か月後の10月、表装は完成する。225×210センチの巨大な掛け軸である。裏打ちは安全を見て四枚重ねにした、とのことだつた。
表装代は20万円と随分高価だつたため、桐箱を誂えることは叶わなかつたのだが、それでも鈴木さんはこれでぎりぎりでしたと話されていた。
その仕上がりには今も感謝しかない。
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