油彩画「俳人 金子兜太の肖像」
美術作品の創造にまつはる手仕事は、どんなに時代が進まうとも失はれることはない。インターネットが普及し、仮想現実世界がさらに進化しようとも。文明が発展し、創造活動が多様化すればするほど、顔料を画面にこすりつけると云ふ単純極まりない作画方法の稀少性や重要性は増す。
ただしそれに比して、従事する人々の多くにとつての苦難も増えることも予想される。わが国で行はれている美術教育に致命的な欠陥があるためである。有名美大や東京芸大も例外ではない。
実は美術教育にとつて、未来に残すに値する芸術作品を生む土壌を育むことは第一義ではない。芸術作品を作る技術やノウハウを教へることでも、芸術を見極める目を育てることでもない。他者と異なる繊細な感覚、深く広範な知識や探求心、さらには特異なものを生み出す才能といつたものを伸ばすことでもない。
最も重要なのは形而下の問題、つまり作品を金に換へる能力である。同時にそれは自己をアピールする能力であり、実社会で云ふところの営業能力にほかならぬ。
これは教育によつて十分補へる能力であるにもかかはらず、又有効なる多種多様な方法があるにも関はらず、美術学校の授業で触れられることがない。したがつて殆どの学生は卒業と同時に失業者とならざるを得ない。
その原因を一言で云へば、教師自身が絵で喰へてゐないことに尽きる。教師は絵を描く方法を教へることでやつと喰へてゐるのであり、この悲惨な状況は、営業能力つまり、自らを押出し絵を売る能力を持つものが皆無である、と云ふ事実に基づいてゐる。
この欠落をば今の学校教育で埋めることはできない。絵で喰つてゐる画家を見つけ、弟子入りすることが最上等の道である。
第二の道は、学校教育においては、知識を習得し同窓と切磋琢磨するといふメリットはあるため、ここに席を置きながらも、批判的な目を持つて教育の欠陥を自覚し、営業活動のノウハウを独学或いは学外の師に求めることである。
手法は多々ある。ネット上にも画廊にも、コンクールにも。多くの人と会ふことが肝要である。広く網を張り巡らし、泥縄でも構はないので、いつでも不意にもたらされるオファーに対する準備を整へておくこと。
経済がすべてである。経済活動を疎かにしてあらゆる事業は存続し得ず、金銭を欠き生活が成立たずして、制作を続けることは出来ない。美術制作もビジネスの一環なのだ。
早い時期に気づかねばならない。早く始めるほど良い。徒弟修業とはどの世界に於いても、10才そこそこで始めるべき性質のものであるのだから。
閑話休題。ここからは表題作について語らう。
フランスで活動したのはきつかり一年。一年間の仏日往復切符と滞在費を準備しての渡航だつたが、現地での稼ぎは、日本に残した妻の生活費を満たすにはたうてい届かず、裸同然で帰国。
派遣社員として働きながら、商用サイト(肖像画注文制作のホームページ『肖像ドットコム』)を独力で立ち上げた。今から17年前のことである。もつとも趣味のホームページは渡仏の5年前から作つてはあつた。
注文を得るためには、サイトへのアクセスを増やすための広告が必須と考へ、PPC広告を試みたのだが、クリックするのはライバル社ばかりであつた。瞬く間に万単位の出費となり、これは浪費で終はると判断し、SEOの学習に切り替へる。
金をかけずに検索順位を上げるためには、メガサイトからのリンクが最も有効ときづき、無料のメールマガジンを創刊したりした。
この間、町工場に正社員として就職。働きながらSEO対策を重ねると、徐々に検索順位が上がつていき、「肖像画 注文」等で上から10番以内に表示されるやうになつた頃、突然封書が届いた。
差出人は、埼玉県秩父郡皆野町役場とある。肖像画の見積依頼であつた。
皆野町の名誉町民に推挙された「金子兜太氏の油彩肖像画と額縁と、額縁の下に掲示するステンレス製のネームプレート」の注文である。
金子兜太と云ふ名前だけは知つていた。朝日新聞の俳句欄の選者であつたからだ。すぐにネット検索してみると、
金子兜太(1919-)東大卒。1943年日銀に就職後出征。海軍主計大尉としてトラック島で200名を率ゐる。戦後日銀に復帰。定年まで勤めながら、前衛俳句の旗手と呼ばれた。1962年『海程』創刊。1983年現代俳句協会会長。87年から朝日俳壇選者を務め、88年紫綬褒章、2005年芸術院会員。 云々とある。代表作に
水脈の果て 炎天の墓碑を 置きて去る(1955年) 彎曲し 火傷し 爆心地のマラソン(1961年)
文言が屹立する句である。酷薄とも云へるやうな用語が際立つている。後に届いた、氏が選んだに違ひない肖像写真には、彼の人生を思はせる風格が感じられた。
依頼書は簡便なもので、同業他社に複数送付してゐることが予想された。競争に勝ち抜くためには、1.出来るだけ迅速に 2.信頼できる形の完璧な見積もりを 3.出来るだけ安い価格で 呈示することである。
当日2月6日は休みだつたため、13時に封書を開くと、14時に額縁店に額を照会。16時半には、役場の担当者に不明点を問合はせる。次にネット検索でプレート製作業者を2社見定め、ステンレスネームプレートの見積もりを依頼。
2月9日の朝一、皆野町役場宛メールにて概算見積額を連絡。翌日、町田の会社を早退すると、銀座の額縁店に出向いて既製品のF6号額縁を、役場仕様のサイズに変更する打合せ。翌日速達にて、見積書と額縁店で入手した額のパンフレットを送付。
六日後の17日に内定メールが届く。おそらくは、価格、対応スピード共に群を抜いてゐたに相違なかつた。議会で正式承認が必要とのことで日数が過ぎていつた。
引き続いて担当者と、写真についての要望や納期についてのやり取りを行い、3月11日には、詳細な写真を8枚受け取つた。再び写真の内容とプレートの厳密な寸法を問合わせる。この時点で受注は確定であり、制作準備を進めることとした。
また送られた写真をフォトショップソフトで組み合わせ、肖像画の構図を合成し、添付メールで送る。この後五日間、会社より台湾への出張となり、現地のインターネットカフェでメールを確認。勲章の位置を上げるやう指示があり、修正す。
3月27日合成写真を送信し、納期も4月一杯と云ふことで承認を得た。3月30日はメールマガジン『歴代肖像画一千年 シャルル7世の肖像画』の締切で、徹夜の執筆。忙しい時期に機会というものは、何でもかでも突つ込んで来る不思議がある。
4月2日、業者からネームプレートの校正刷りが届く。プリントアウトして、クロネコメール便にて皆野町宛発送。
そして4月5日肖像画制作本格着手。承認された構図写真をモノクロで原寸大に拡大し、予め鈍い緑色で地塗りしてあつたキャンバスに、カーボン紙でトレース。油絵の焦茶色で輪郭線を描き起こす。
4月11日彩色着手。12日には凡そ40パーセント色が乗る。この間、台湾でお世話になつた方々への手紙を複数送り、ネット販売してゐた商品が届かないと云ふお客様対応をする。
18日、忙しい会社勤めの合間を縫つてコツコツ描き続けることに拠り、絵が小さく細かくなつていくことに、体中の感覚が拒否反応を起こしたやうだつた。夕方まで方策を悩んだ末、右手に二本の筆を握つて、多量の絵具を大きく太く厚塗りした。
19日、連日の疲労の所為か、デッサンが狂ひ進まない。四苦八苦して何とか頭部の八割方を完成。会社からの帰宅後、一眠りしたあとで、深夜2時間ほどやつとの思ひで加筆するといふ日々が続く。
25日、ネームプレート届く。確認すると、ステンレス表面に目立つ傷と汚れがある。側面は未処理のまま。撮影後、着払いで返品。メールで写真を送り、社長に電話で修正を依頼。26日、頭部の手直し。背広の質感の追求。背景に緑を置く。
27日、帰宅後ネクタイを描画。28日、リボン、勲章、髪の描画と署名を終え14時半、一旦完成。22時、気になる箇所の修正リストを作成し、ダメ直しに着手。29日完成。ネームプレートも届く。今度は98点、助かつた。それから徹夜で請求書、納品書、送付状を作成しプリントアウト。
翌30日再び銀座の額縁店に出向き、額縁をチェック。持参した本作品を額装して貰ひ、撮影。書類と同梱で、皆野町宛発送を依頼し、代金を支払ふ。睡眠不足のため、帰途、いや終日、雲の上を歩いているやうな感覚だつた。23時半、皆野町宛作品を発送した旨、メールにて連絡を入れる。
5月1日、自宅に役場の担当者からお礼の電話があつた。妻に拠れば、電話の声が弾んでいた由。ひと安心だつた。今思ひ出しても身の毛のよだつやうな多忙な中での制作だつたが、本当に役場担当者のM様にはいつも親身かつ適切に対応していただき、感謝の気持ちしかない。
思へば、今回は歴代肖像画の作例写真を予め、4点送つていただいてゐたが、一様に黒の背広の暗い背景だつたので、この様な絵ばかりでは展示室も重いだらうと考え、くすんだニス色を抑へた清新な感じを狙つたのが良かつたかもしれない。
いつか一度、名誉町民の肖像画が展示されている皆野町役場を、奥秩父旅行を兼ねてご挨拶がてら訪ねたいと思ふのだが、いまだに果たせずにゐる。
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