水墨画「サント・ヴィクトワール山」
この絵は2003年の冬に南仏で描いた水墨画で、渡仏したのはちょうどその2箇月前の10月下旬のことであつた。各地で山水画を描き溜め、パリの画廊に持ち込まうと考へてゐた。
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私のモチーフは、厳然として立ちはだかる、確固たる存在感を持つものでなくてはならなかつた。要するにマッス(塊)が描きたかつたのである。それは岩山・山塊でもあり得たし、人物でもあり得た。
フランスの山と云へば、モンブランとサント・ヴィクトワールしか知らなかつた。近代絵画の父、ポール・セザンヌのモチーフを選んだのは自然と云へば自然だらう。セザンヌへのオマージュ(敬意の印)であると同時に又、油絵のサント・ヴィクトワール山は何万何千と描かれてゐるはずだが、水墨画ならば珍しからうといふ計算もあつたのだ。
さういふわけでセザンヌの故郷エクス・アン・プロヴァンスに降り立つたのが11月の1日。ホテルを2日予約して翌日には、早速ル・トロネへと向かつた。
この道路は『セザンヌの道』と呼ばれる霊験あらたかなみちである。ところが100年前と違つてそれは、四輪車が時速7、80キロで行き交ふ歩道なき道で、危険このうへなく、行けども行けども聖山は見えぬ。
命のちゞむ思ひで歩いた末にやうやう一箇所絵になる場所を見つけたが、イーゼルとイスその他大荷物で通へる気がしなかつた。
3日目にはユースホステルにチェックイン。仏語でオーベル・ド・ジュネス(以後AJと略す)と云ふ安宿で、15ユーロで泊まることが出来た。当時の1ユーロは150円。簡単な朝食付きで2,250円は有難かつた。荷物を預け、観光案内所へ行つた。
案内所は英語が通じるが、バス路線図も地図も英語で書かれてはゐない。迷つたが2種類のペラ地図(3,240円)を買はざるを得なかつた。
4日目、午前中長期滞在用ホテル「シタディンヌ」を下見。午後からバスでサント・ヴィクトワールをめざす。Bimont(ビモン)で降りるとダムの上から山と湖が描ける良いポイントを見つけた。セザンヌの時代にはなかつたかもしれない。
ふと気づいたことだが、一昨日も今朝も蚊がいやに多い。到底、落ち着いて描けさうにないので、一旦、別の写生地を求めて北へ向かふことゝする。そしてセザンヌも描いたことのあるスイス国境の町アヌシーで、三点の山水画をものしたあと、再びエクスに戻つたのは3週間後のことであつた。
同じAJに腰を据ゑ、ひどく雨に祟られながらも、延べ6日かけて『サント・ヴィクトワール山とビモン湖』を仕上げた。制作中に声をかけられた南仏人カヴァリーノ氏とはアドレスを交換し、いたく絵に魅せられたやうで懇意となる。
この間、バスでBeaurecuil(ボールキュイユ)を下見して、セザンヌの絵にそつくりな場所を発見した。
しかしかう雨が多くてはかなはない、と云ふわけで誰もが「雨は降らぬ」と断言する、第三の制作予定地マルセイユに向かふことゝした。さうして12月の6日から17日まで3点の作品を仕上げてから、12月18日、三度目のエクス入りをする。
此度はシタディンヌに居を定めた。調理器具・シャワー・トイレ付、電話も使へ完全個室で4,600円。スペースは二人用でやゝ贅沢だが、一箇月アトリエを兼ねて、落ち着いて制作できる拠点とすることを日本を発つ前から決めてゐたのだ。
12月19日夜、33×83センチのパネルに和紙を水張りする。翌20日、朝から弁当を用意する。とは云つても固い食パンにジャムを挟んで三角に切つたゞけのものだ。それと水。ハンドキャリーにパネルと携帯用イーゼルを括り付け、リュックを背負ひ、12時10分発のバスでボールキュイユへ向かふ。初日である。ここから見えるサント・ヴィクトワールはまさにセザンヌそのものだつた。
眼前に広がる光景に息を呑む。
聖なる山の白亜。晴れ渡つた南仏の空、雲一つない青たる青。生ひ繁る草木の緑のそよぎ。ぱつくり口を開けた赤土の斜面の輝き。
油絵具を持参しなかつたことが悔やまれた。さう、今でも悔やまれる。(写真参照。)さて水墨でだう描くか。少なくとも初日は構図だけは決めねばならない。イーゼルにパネルを固定し、折り畳みイスを拡げ、筆・墨・硯・水カップを並べる。薄墨で山の輪郭線を探る。離れて見る。
何度か繰り返していゝ感じになつて来たところで、濃い墨に浸け、直筆で画く。直筆とは、画面と垂直に筆を立てゝ線で画すること。
それは、古代中国人が大切な記録を亀の甲羅に小刀で、甲骨文字を刻んだ行為と変はらない。刀で斬るのであるから、まかり間違へば己の手足を切りかねぬ。さうした気合ひで線を引くのである。こゝしかない、1ミリずれてもいけない、絶対にこゝしかないと云ふ場所に線を引くのである。
初日は空を刷毛で薄く染めたところで終はる。18時30分のバスでエクスに帰つた。
翌日は懐中電燈を買ひに行く。昨晩の帰途、足元が暗くておぼつかず、バス停ではバスが私を見過ごしさうだつたので、これは必要なものだ。電池は4.5ボルトの箱電池で、締めて530円か。12時10分のバスに間に合はなくなり、終日、足りないものを買ひ足すための一日となつた。
12月23日。2日目。寒風吹きすさび、神経がやられて描けぬ。夕方になつて風が止むとやつと描けるやうになつた。少しずつ少しずつ描き進む。時間がない。
18時15分、バス停に到着したがバスは来ない。暗闇にて待つこと1時間。エクスとは逆方向に向かふバスが止まつたので、運転手に尋ねると、学区が休みに入つたので別スケジュールとなり、エクス行のバスは終はつてゐると云ふ。
けれども親切な運転手は「乗れ」と言つて、そのまゝ反対方向の終点まで行つたあと、Uターンして、エクスから2キロの地点にある車庫まで連れて行つて呉れた。ありがたい!街灯もあるので2キロなら歩ける。深く感謝を伝へて彼と別れた。
12月24日。朝8時カヴァリーノ氏より電話があつた。車で良い場所へ案内すると云ふ。けふはノエル(クリスマス)だつた。今日の制作は諦めるか。図書館でインターネットして時間をつぶす。アヌシーの友人に返信。11時にカヴァリーノ氏がやつてきたが、息子を迎へに行かねばならんので今日はだめだといふ。
お詫びの気持ちか、カフェを一杯ご馳走して呉れた。ではと準備を整へ、12時10分ぎりぎりにバス停へ到着。またゞ。待てども待てどもバスは来ない。1時間待つた。バスは定刻の2分前に出発したらしい。ホテルに戻るしかない。くそつ(メールド!)フランスに対するストレス。ストレスでやる気が失せる。カヴァリーノ氏に手紙を書いた。
12月25日朝9時、ホテルにカヴァリーノ氏が現れる。なんだかんだで12時30分までゐたのでボールキュイユは諦める。昨日の手紙を手渡した。彼はたゞフランス語の重要性だけを強調してゐた。ここフランスであなたがフランス語が出来ないのがすべての原因である、と。
12月26日。朝9時30分、昨日フロントに伝えてあつたシャワーホースの取り替え完了。今日で制作は3日目。絵の中の山はやつと形が出来て来た。
夕方、暗いバス停で懐中電燈を灯して待つていたら、バスが通り過ぎた。挨拶してもいつもそつぽを向いている、あの年配の白人運転手だ!気づいてないのか?乗車拒否か?あの野郎・・・。もうバスはない。
とぼとぼと遠いエクスの町の方角へ、重いイーゼルを引き擦りながら、ヒッチハイクを試みる。シノワ(中国人)だ、誰が止まるか、といふやうなものだらう。
数少ない通行車両が上向きのライトでビュンビュン通り過ぎて行く。10台目を数えようといふ頃、男性の車が止まつて呉れた。彼は英語が堪能なのだつた。一目で事情を察したといふ様子だつた。車内での会話は弾む。
あのバスの運転手の所為で1時間40分かゝつてしまつた。しかし、10台目の彼がいなかつたら倍近くかゝつたらう。地獄に仏。そんな思ひであつた。
12月27日(土)雨のち曇り。寒い日なりき。最終日。朝9時のバスに乗る。現地に9時半から19時近くまでへばりついて、もう十分と思へるまで描き込んだ。完成!
19時15分のバス停。暗い中にバスが来る。やはり私の懐中電燈のライトに気づかず、通り過ぎようとしたバスの前にとび出す。ブレーキ!「ボン・ソワール」と挨拶すると、一度も目を合わさうとはしなかつた運転手が、頭から湯気を立てて、私を睨み据ゑた。とはいふものゝ、バスに乗れゝばエクスの街まで20分で帰れる。
ホテルに疲れはてゝたどり着く。迎へるホテルのフロントの若い女に無視される。この日の私の手帳には、「受付も避けている!」と震える文字で書かれていた。
かうしてフランス滞在中、最も不安定な精神状態で完成にこぎつけた “Mont Sainte Victoire de Beaurecuil” は、当地で制作した5点の中で、最も出来が良かつたやうに思ふ。いや、おそらく全滞仏作品23点の中に於いて。
しばらくしてカヴァリーノ氏宅に招かれた折に披露したところ、本作品を500ユーロ(75,000円)で譲つて欲しいと云ふ。かなり心が動いたものだつたが、パリの画廊に持ち込む積りだつたから、断念せざるを得なかつた。
しかし、20年を経た今にして思ふのだ、最初に出会つた絵画愛好家、カヴァリーノ氏に所蔵してもらへば良かつた、と。
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