アクリル壁画「人間と木」
この写真は1989年12月に撮影したもので、撮影場所は東京都武蔵野市吉祥寺のサンロード商店街。そぞろ歩く人々の上、画面中央に写るのが、美校在学中に制作した30平方メートル(縦3.6×横8.3m)の壁画である。
吉祥寺といふ街は関東以外の人にとつてはあまり知名度はないと思はれるが、リクルートによると、二年連続で『全国住みたい街(駅)ベスト2』に選ばれており、2004年から2018年はベスト一位だつたらしい。(因みに2023年の一位は横浜)
街の魅力は新宿までJR中央線で14分、東京まで29分、渋谷へは京王井の頭線で19分といふ都心へのアクセスの良さが理由のひとつ。地下鉄はないが、東京メトロ東西線がJR中央線と相互乗入れをしてゐる。
不動産会社によるかうした人気調査で次に来る評価は、文化商業施設である。吉祥寺から歩いて18分の処には、卒業者に芸能関係者が多い明星学園がある。またかつて武蔵野美術大学(前身は1929年創立の帝国美術学校)が13分の距離にあつた。
1969年それが小平市に移転すると、跡地に武蔵野美術学園(私の母校)が創立され、現在は武蔵野美大の通信教育課程となつてゐる。他には駅から西北に徒歩17分で成蹊大学、同じく東北に17分の場所に東京女子大学がある。
また美大に由来するのであらうか、版画家・浜口陽三や萩原英雄の作品を収蔵する市立吉祥寺美術館、彫刻家・北村西望の寄贈による彫刻館があつて、三鷹の森ジブリ美術館や山本有三記念館も歩ける範囲に立地する。
市営吉祥寺シアター、18軒ほどのライブハウスに美術画廊。駅から500メートルの範囲には複合商業施設が立ち並ぶ。西武系、京王系、東急系。ヨドバシカメラ、紀伊國屋、縦横に走る商店街…。けれども老若男女を問はず愛される筆頭といへば、駅南口徒歩8分の「井の頭恩賜(おんし)公園」であらう。
大正6年に宮内省から下賜された豊かな水と緑の公園は、広さが43ヘクタール(43万平方メートル)、東京ドーム球場9個分、都立公園の中では12番目の面積を有してゐる。
公園内にY字型に広がる「井の頭池」の中の島には、12年に一度しか開帳されない弁才天が祀られてゐる。これは最澄(766-822)が彫刻した弁天像を、清和天皇の孫で清和源氏の祖源経基(916-61)がこの地にもたらし祠を創建したと伝はる。
各地で信仰される弁才天とは、元々はヒンズー教のサラスバティー神であり「水を有するもの」を意味した。当初は水にまつはる蛇神として、仏教に入つてからは琵琶を持つ天女の姿で表され、学問と豊穣を司る。
当地の「井の頭弁才天」は、戦勝祈願した源頼朝や新田義貞のいずれにも大勝利をもたらした。又戦国の覇者秀吉の命令で1590年、遠江から無理やり江戸に移封させられた徳川家康にとつても霊験あらたかな女神であつた。
入植当時、良水の確保に頭を悩ませた家康だつたが、七つの湧泉をもつ井の頭池は、江戸を潤す神田上水の水源となり得た。三代将軍家光は、池を「井(戸)の頭」と命名。やがて井の頭弁才天は江戸町民の信仰を集め、行楽地となつた。
つぎに、吉祥寺といふ地名について。これは室町中期に江戸城を初めて築いた太田道灌(1432-86)に由来する。築城を始めた1456年井戸を掘つた処、「吉祥増上」といふ印が出土。此れを瑞兆として和田倉門(現在の大手町駅)あたりに吉祥庵を立てた。これがのちに曹洞宗の吉祥寺となる。
道灌の築城から133年後、領主となつた徳川家康は、江戸城造営に伴ひ、吉祥寺を2キロほど北の本郷元町(文京区本郷1丁目都立工芸高)に移した。5年後には宗門随一の栴檀林(学問所)が設立され、寺の一帯には吉祥寺門前町が広がつた。
1657年、死者10万といふ「明暦の大火」で全焼した吉祥寺はさらに3キロ北方の駒込村(文京区本駒込3丁目)に移転。取り残された門前町の住民は幕府領だつた五日市街道沿ひ(武蔵野市)に集団移住させられた。
この地は稲作にも畑作にも不向きの土地であつた。移り住んだ住民たちは、かつての吉祥寺門前町を偲び、ここにつひに「吉祥寺村」が誕生した。かういふ訳であるから、吉祥寺の街には吉祥寺と呼ばれる寺院は存在しない。
では元々の吉祥寺は吉祥天と関係してゐるのかどうか。吉祥天とは、ヒンズー教のラクシュミーと同一の女神とされ、「大海から生まれたもの」の異名をもつ。仏教では毘沙門天の妃であり、左手に宝珠を持ち、美と幸福をもたらす功徳天である。
本駒込の吉祥寺には、毘沙門天像(家康所持)、観世音木像(秀忠夫人浅井氏奉納)、文殊菩薩像(秀忠所持)が寺宝として伝はるが、吉祥天像はないやうだ。尤も賑はう今の武蔵野吉祥寺ならば、吉祥天が舞い降りたと言へるやもしれぬ。
前説が長くなつた。だが、かうした情報は、完成後動かすことの出来ない作品にとつて、土地に根差したモニュメントである壁画の制作にとつて、当然押さへておくべきことであつた。
さて此処からは本題である『一枚の絵の歴史』を語らう。今から35年前の1988年秋、武蔵野美術学園三年生だつた私に、学園の事務方からサンロードに壁画を作ると云ふ案件がもたらされる。当時29才、建設会社の監督経験を持つ学生であつた。
10月15日商店街の担当者に会ふと、15周年を迎えたサンロードを1億5千万円をかけてアーケードを改修、照明や柱の塗装を一新するので、その一環として新しい壁画を設置したいと云ふ。
前回丹青社に依頼したが、今回は制作費が折り合はなかつた。テーマは井の頭公園をモチーフする「水と緑と太陽」で、予算は50万円。材料の指定はなく、壁画の下地のトタンは丹青社に施工させる。設置期間は3~4年とのことであつた。
実はこの春渡欧してフレスコ壁画を実見したばかり。建築と絵画の中間である壁画は是非手掛けたい分野であつて、断る理由はない。とはいへ、トタンに作画した経験は一度もなく、まず直面した課題は工法をどうするかといふことだつた。
学園の担任である画家・藪野健に相談すると、ペンキは避けた方が良い。あつかいにくく表現の幅がせばめられる。鉄板に紙か布が貼れないか。絵は全部こわしてもいい。やつたことのないことをやつてみたら、とのアドバイスをいただいた。
地元の塗装材料店や画材メーカーホルベイン工業の研究室に重ねて問ひ合わせ、油絵に近い表現が可能なアクリル絵具の採用を決めた。丹青社の下地は1×2メートルのアルミ板をビス止めし、ジョイント部の暴れはシール処理のみ。
下地に直か描きすればジョイントで割れることが予測され、キャンバスの材料である中目の麻布で、全面アクリル糊貼り補強することが必須条件となつた。早速アルミ板を画枠に打ち付け、麻布貼りをテストすると、糊が抜けてまるで付かない。結局これは膠で麻の目止め(縫い目を糊で塗りつぶすこと)をして切り抜けた。
手配した材料が揃うと、12月3日学園の屋上で麻地75センチ幅34メートル分に、膠水を塗る目止め作業を行つた。この間都内数箇所の壁画を取材し、9日間井の頭公園スケッチを行つて、下絵を何十枚も制作した。足場の図面も作成提出した。
12月17日、現場初日。30平方メートルのアルミ板表面を電動ベビーサンダーで研磨し目荒しを行つた。アクリルジェルを付着しやすくするためである。これに滑り止めとして、油性のストロングプライマーを全面塗布。
翌日、同級生二人をアルバイトで雇ひ、プライマー二回目塗布後、ジェルメディウムをグロスメディウムで薄めた糊で、壁面に麻布を貼り付ける。麻にも、アルミ板にも双方に糊付けが必要だ。翌日以降、モデリングペーストをローラーで転がし凹凸付け、ジェッソに拠る白色下地塗り、続いてレッドオーカー下地塗りと進めた。
1/3下絵を足場上に持ち込み、これを見ながら白チョークで輪郭デッサン。描画はプラ容器に薄く溶いた白絵具で事物を描き起こす白色浮出と、シャバシャバに溶いた色絵具を刷毛塗するグラッシ(透明描法)を繰り返して完成まで持つてゆく。1月、2月…商店街での制作と、学園での実習の日々は飛ぶように過ぎていつた。
長いこと往来にゐるとこんなことがある。「まだやつてる。早くやめりやいいのにね」と通りすがりの女の声。確かにさうだ。足場の下から「看板やー」と声を投げられたこともある。これは絵を学ぶ学園生だつたかもしれないが、むつとした。
一度だけ良いこともあつた。制作も終盤に差し掛かつたある日の夕方、同級生のイトウさんが弁当を差し入れして呉れた。実に彼女らしい無償の声援はしみた。この日は8時まで現場に踏ん張れた。
完成の二日前、藪野先生がイトウさんを含めた三人の同級生を連れてわざわざ訪れ、珈琲に誘つて下さつた。授業のやうな厳しい批評はせず、「でかいから迫力があるね」と一言。「学園のこの学年からいい人が出てほしいね」とも。
「看板やー」の一件をつい愚痴に出してしまふと、「そんなことで怒つちやだめね、アリガトーと言へばいい」…先生のお人柄ならば間違いなく出来たであらう。あれから35年、80才に手が届いた先生は永年芸術院会員を務めておられる。
2月18日、たうとう筆を置く日がやつてきた。細かなダメ直し15項目を終え、サインを入れる。「Figure con alberi(人間と木)Takano 1989」
12月17日から搬出の2月20日まで3ケ月、実働42日間。これは最終学年の3年生として、100号一点、60号二点、120号卒業制作一点を並行制作していたから止むを得なかつたのだ。温かく見守つて下さつた商店街の人には感謝しかない。
最後に、啓示を与へて呉れた国木田独歩の『武蔵野』の一節を引用する。
武蔵野に散歩する人は、道に迷ふことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当もなく歩くことに由て始めて獲られる。
春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩て思ひつき次第に右し左すれば随処に吾等を満足さするものがある。
私にとつて武蔵野に広がる井の頭公園とは、寄り添ふ一組のカップルと、四人の踊る娘たちと、ベンチに腰かけ赤子の相手をする幸福さうな若い女であつた。さうして時の散歩道を歩く人々の群れであつた。歩く、さう、歩いてゐることが重要だ。
散策する市民の間には、音楽と豊穣の女神・井の頭弁才天と、
美と繁栄の女神・吉祥天が紛れ込んでゐた。さうして写し取らうと努めた壁画の中に、
上段には、水辺に生い茂る木々の緑と白い幹の連なり
中段には、井の頭公園を散策する人々
下段には、現実のサンロードを通行する人々
といふような、上下三段に流れる『人間と木』の全体を実現したかつた。それは冒頭の写真に見える全体像そのままの姿であり、やり残したことはない。
1989年の完成後、予想通りアルミ板にずれが生じても、貼り込まれた麻地に拠つて踏みとどまることが出来、壁画そのものは現状を保つてゐた。十年を経て、商店街の意向で壁画は失はれたが、サンロードを闊歩する市民が途切れることはない。
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